小田嶋:私はゲーマーですからね。

小田嶋さんはぴんと来ましたか。

小田嶋:ぴんと来ましたよ。だってゲームをやる場合、「プレイステーション」と「PSP」の違いはすごく意識するし、「Wii」だとコントローラーがこうだからな、ということでもって、乗り方とかが違ってくるわけですよ。携帯するゲーム機と据え置きのゲーム機では、ゲームに対するかかわり方そのものが変わってくる、という感じは、私はもちろんゲーム機には持っていましたが、ネットも、そうやって見ればその通りですね。

(注・「PSP」は携帯型のゲーム機、「プレイステーション」「Wii」は据え置き型のゲーム機)

濱野:まさにそうなんです。

小田嶋:「アークテキチャ」の概念とともに、俺が濱野さんのご本で新鮮に思ったのは、冒頭で、「私は大きな文明論をやるんじゃないんです」と書いておられたところです。あれ、痛いところを突かれた気がしてね。我々みたいな世代は、とてもでかい文明論でネットを説き起こすわけですよ。それこそグーテンベルクのところから話を引っ張ってきて。

濱野:メディア論のマーシャル・マクルーハンなり。

小田嶋:メディア論、文明論、何とか史観みたいな中にインターネットというものを位置付けて、ちょっと大げさに考えがちなんだけど。でも、インターネットがもともとあった人からすると、インターネットの中の「ミクシィ」と「ツイッター」の違いの方がずっと大事、みたいなことですよね。

濱野:文明論から見れば、ささいな違いに見えますが、まさにそういうことです。

小田嶋:ささいといったらささいだけれども、ミクシィもツイッターも全部普通にやっちゃっている世代からすれば、その違いを論じる方が、おそらく本質的なわけですよ。ネットが何もなかった時代と、インターネットがある時代との違いというのは、あるといったらあるんだけど、それってもうたぶん30歳から下の人にとっては、「だって、あるものなんだから、ない時代の話をされてもしょうがないでしょう」ということですよね。

「インターネットとは」と、やるのは、年寄りの見方なんだ。

小田嶋:年寄りの見方なのよ。だってもう、できてから20年たっているわけだからさ。前に筑紫哲也みたいな人が、インターネットを「便所の落書き」と言ったでしょう。それを聞いて、この人はとんでもないひからびた頭になっているんだな、と俺は思ったけど、「インターネットとは」なんて言っている我々だって、20歳も年下の世代からは「違うでしょう、おっさん」という感じがするのかな、という。

という感じなんですか、濱野さん(笑)。

濱野:いやいや(笑)。ただ、かつては社会学を論じるというとき、マルクス主義の影響が非常に強かったんだと思うんです。マルクスの唯物史観というのは巨大な歴史観・文明観なわけですが、あれのいわば横滑り版というか対抗バージョンとして、たとえばトフラーの情報革命系の議論やマクルーハンのメディア論とかが出てきた。そういうでかい文明論の話をするのが、社会全体を論じるときの基本としてあったんだと思うんです。そういう議論は、私も別に決して嫌いなわけではないし、むしろ好きなほうなんですが。

小田嶋:ただ、それを20年もやっていてもしょうがないからね。

濱野:確かに「情報革命、情報革命って言い過ぎじゃないか問題」みたいなのはありますね。例えば社会学者の佐藤俊樹さんが『ノイマンの夢・近代の欲望――情報化社会を解体する』という本の中で、「この30年ぐらいずっと、情報で社会は変わる、みたいなことばかり言われてきたが、実際に検証してみると何も変わってないぞ」ということを書かれているのですが、私の中にもそういう認識はあります。

 情報系の議論というのは本当に単純で、とにかく次々と新しい技術やサービスが出てくるたびに、「ツイッターで社会が変わる」とか「フェイスブックで社会が変わる」とか、とにかく社会が変わると言い続けていればオッケーなフシがある。それはいやだな、と。だから私がインターネットを論じるときは、なるべくそういうでかい話はせずに、それこそ「ツイッターの、このちょっとした仕様が実は肝になっていて」というように、すごくミクロな視点を大事にしたいな、と思っています。

そもそも小田嶋さんは、いつからネットに深くかかわるようになったんですか。

小田嶋:インターネットについて言えば、1998年にホームページを立ち上げたころかな。でもその前に、1988年ぐらいからパソコン通信というやつにはかかわっています。「ニフティサーブ」、あとアスキーの「PCS」「ACS」というのが立ち上がったころですね。

濱野さんが8歳のときですね。

小田嶋:・・・8歳か。まだ小学生ですね。