小田嶋:いや、あの本は別に『ガラパゴス』とは特に・・・。

ナビゲーター役から申し添えますと、社会学の話では全然ありませんので。

濱野:すみません、まだ拝読していないので、ぜひ中身を読んでからお話を伺うべきだったのですが・・・。

小田嶋:日本がガラパゴスだ、という話をしたかったんじゃなくて、我々はガラパゴス環境の中の、そのまたガラパゴスの人だよね、というぐらいの話です。

濱野:ガラパゴス・イン・ガラパゴスみたいな、なるほど。

いやいや、そんなアカデミックなものは何もないですから。

濱野:いえいえ、そんな。なので、私の本もアカデミズムから見たら、結局これもガラパゴス論の一種だな、と思われて無視される可能性もあると思います。ただ、日本の人文・社会科学というか、ある種のインテリとか知識人と呼ばれてきた人たちは伝統的に、「日本って何でこんなにガラパゴスなんだろう?」という問題意識をずっと持ってきたんだと思うんです。ガラパゴスという言葉こそ使っていませんけれど、それこそ明治時代ぐらいから、ほとんどずっとそういうことばっかり考えてきているのが日本人なんですね。そういう意味では私自身も、その日本文化論の歴史的伝統に連ねたいという思いをこの本に込めています。

小田嶋:日本文化論としても面白いですが、私はまずやっぱり「アーキテクチャ」という概念が面白かったですね。

濱野さんがここで紹介している「アーキテクチャ」は、日本語に訳すと「環境管理型権力」となります。ネット時代の著作権について積極的に発言してきたアメリカの高名な憲法学者、ローレンス・レッシグが、著書『CODE』(2001年)の中で、IT時代のネット環境について定義した新しい概念ということだそうですが。

小田嶋:インターネットが人々の規範意識ではなくて、その「環境管理型権力」というところの「アーキテクチャ」で制御されているんだ、というのは、私にとっても、まったく気が付いてなかった点です。

だいたい、「アーキテクチャー」(注・最後に「ー」が付く)と言えば「建築」じゃないですか。

濱野:だから建築界隈の人たちも違和感があるみたいですね。磯崎新さんも、最近さまざまな場所で「アーキテクチャという言葉が建築の外でいろいろと使われだしている」ということをおっしゃっています。もちろん建築家にとっての「アーキテクチャー」というのは、通常は「環境管理型権力」という意味合いを含めていないので。

小田嶋:だって建築となると、物理的な材料があって、構造力学があってという話でしょう。

濱野:はい。

小田嶋:でも90年代にはそういうことは別に、システム・アーキテクチャーという言葉は登場していたよね。ただ、このシステム論でいうところのアーキテクチャーというのは、出来上がり方だったり、作り方のルールみたいな話で、どちらかと言えば建築に似ている。

ただ最近は、最前線で活動する建築家の間から、「建築が人々の暮し方や生き方を規定してしまう」という問題意識が、よく挙がってくるようになりました。その意味では、「アーキテクチャ」も「アーキテクチャー」も、合い通じますよね。

濱野:そうですね。ハードウエアとソフトウエアみたいな違いはありますが。

小田嶋:まあ、ルールみたいなものですよね。

濱野:そうですね。私が好んで使う説明は、「アーキテクチャ(Architecture)」というのは語源的にはギリシャ語の「アルケー(始原)」の「テクネー(技術)」なんだと。つまり何かが始まる際の初期ルールというか、初期前提というか、そういうものを指すものとして、この言葉を捉えればいいんじゃないかと思うんです。

 あと、これは個人的な背景になるのですが、私がなぜ「環境管理型権力」あるいは「アーキテクチャ」に着目しているかというと、それはゲームという娯楽に接してきたからなんです。

 私は1980年生まれで、いわゆるゲーム世代と呼ばれたりもするのですが、生まれて初めて触れた娯楽がファミコンだったという世代なんですね。ゲームというのは、まさにアーキテクチャ、つまりサイバースペースという情報環境をどのように設計するかによって、難易度も面白さも、ガラリと変わる。そういうところをずっと子供のときから肌身で感じていたので、ネットサービスも要は同じだよな、という見方が自然に入ってくるんですね。これはゲームをやってない方には、ぴんと来ない議論なのかもしれませんが。

うん、ぴんと来ない。