岡:あれはやっぱり個人情報が漏れているからだよね。
小田嶋:それは今までの広告のあり方とまるで違うわけだよ。
岡:アマゾンのお勧めって、不快だね。
小田嶋:そうそう、あなたはこれが読みたいはず、と見透かされたときの不愉快さってあるでしょう。
それは当たっているときが不愉快なのですか。
岡:そういうこともあるけど、その前に、俺という人間はいろいろな面があるのに、その中のたった1つだけに、簡単に向かって来られる不快さというのが強い。
それはその通りですね。
読後感なき広告は、正しいけれどつまらない
岡:ちょっと話を戻すと、広告の最後に検索窓が出て、どういうことが起きるかというと、本当は本も映画も全部そうだけど、その表現が終わった後に、何らかの感情なり感慨なりが残っていくようなことが大事なのであって、せりふのいちいちとか、音などは本来どうでもいいんですよ。ただ、そのCMが終わっても、忘れられない何かを残せたかという、本で言えば読後感みたいなものが広告には大事なことで、僕はそれを作ろうとしていたんだけれども、最後に検索窓と入れてくれ、ということでは、読後感もクソもないわけですよ。だって「とにかく店に行ってくれ」というのが結論になるわけだから。
道で客を引いて、そのまま店に連れていく、ということですよね。
小田嶋:だから自分で言うのもナンなんだけど、キャッチセールス広告というのは素晴らしいネーミングなんだよ。
岡:しみじみするような広告は作れないんだよね。しみじみさせて、そのまま売れって、それ、無理だから。
小田嶋:気分を残すんじゃなくて、マンションの1室に引っ張り込んで、ビデオを見せて監禁する、みたいな、そういう世界になっているよね。
岡:小田嶋の例えはとても乱暴だけど、広告の本来の機能はそれなんだ、だからキャッチセールス広告でどこが悪い、という見方もあるんだろうけど、広告っていろいろな可能性があったのにな、という立場から見れば寂しいよね、検索窓が出ると。
そのノスタルジックな感情とメディアの変化というのとは、どうやって折り合っていけるのでしょうか。iPadがすごく広まって、その果てに図書館がなくなったり、本屋さんで立ち読みができなくなったりするのも、相当寂しいと思うのですが。
岡:そうね。そういうの、全部なくなっちゃうのかな。
脳内にある、実在の本屋さんの棚

小田嶋:本屋さんについて言うと、自分のよく知っている本屋さんの書棚って、こっちがちゃんと覚えてるじゃない。1回入って出てきただけで、どういう本があそこの棚には入っているとか、そういうことを歩いている間に感じていたはずなの。
探すものが決まっているときはアマゾンでいいというか、アマゾンの方がむしろいいんだけど、何かないかな、と探すときは、絶対に本屋さんの方がいいんだよね。
岡:その探す時間って、実はすごく大事じゃないかな。
「日経ビジネスオンライン」のヤナセ某は、iPadはもちろんのこと、初期のキンドルや、ケータイ小説、青空文庫など、豊富なデジタル読書体験を積んできた人なのですが、それでもキンドルやiPadで日本語のコンテンツを読むときは、10分が限度だと言っています。
岡:まったく同じことを昨日、広告コンサルタントの吉田望も言っていた。あいつは日英どっちも読めるんだけど、アルファベットは耐えられる、と言っているわけ。でも日本語は漢字があって、ひらがながあって、カタカナがあって、そうすると耐えられない、と。キンドルやiPadは結局、日本語の字の美しさに勝てない、ものすごいぞ、日本語は、って言っていた。
小田嶋:縦書き、横書きの問題もあると思うよ。だって人間の目玉って横に動くじゃない。だからウェブにしろ、iPad、キンドルにしろ、英文のように、文字を横に読んでいって、行が縦に流れていくというのは、比較的、人間の目の機能に沿ったことなのかもしれない。実際、ウェブで見る限り、結局、日本語もそっちだし。
だとしたら、それが逆説的に日本語の言語文化の砦になる、ということもありそうじゃないですか。
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