:でも、この連載は、古典的名著の内容を、客観的に要約して紹介しているわけではない。だから、例えば哲学なり文学なりを学んでいる大学院生が見たら、客観性がカケラもないぞ、まるっきりデタラメだ、と言われかねないことを書くときもあります。

自分の体験で返してくれた

:自分の過去のことも書いてますが、もちろん、僕のつまらない人生を公開したいわけではありません。ただ、こんなラフな要約と凡庸な人生が交わるところに、もしかしたらほんの少しだけでも、意味あるものが現れるかも……と、勝手にそんな夢を見ているんです。

 でも、それは僕の夢に過ぎないから、「出来の悪いカタログだ!」と冷たく斬り捨てられる覚悟はしていた。ところが、読者のコメントを見ると、応援にせよ批評にせよ自分のことにせよ、みんなエモーショナルで親身な言葉で書いてくれるんです。うれしかったですね。

市川:そこが、『強く生きるために~』のいいところですよね。「『できそこない』のためのブックガイド」って、敦さん自身が書かれていましたが、これを書く行為自体が「こんなにだめな自分を、しかし、どうやって自分で再肯定していくか」という作業だと。そうすると、読んだ人も、そこからただ学ぶというより、自分もこの本と同じようなことをやってみることができる、と思えるんじゃないかと。

岡敦さん

:ああ、それぞれのやり方で、ということですね。

 例えばイタリアへ行って一面のひまわり畑を見た人がいて、「あのひまわり畑を見たことがあるか? 美しいっていうのは、ああいう光景を言うんだぞ」なんて言われたとする。ぼくは、一面のひまわり畑を見たこともないし、イタリアへ行ったこともない。だからその人に言わせれば、ぼくは美しい光景を知らない、ってことになりますね。

 だけど、例えば多摩川の土手に座って、地面に着いた手のそばを見たら、雑草の小さな花が風で揺れていた。それを見ていたら、何だか泣けてきた、という経験はあるわけです。それでいいじゃないか、ということですよね、ぼくが書いていることのひとつは。

 読者コメントに話を戻すと、ぼくがそんなふうに多摩川の雑草のことを書いたとして、それを読んだ人から、「それって多摩川のどこ? 今度行ってみるから、場所を正確に教えてください」と聞かれたら困るんです。

市川:困りますよね。

:そう聞かれるってことは、この連載が客観的な名作ガイドみたいに読まれてるってことでしょう。ぼくはちゃんと書けてない、失敗してる、ってことになる。

 でも、「日経ビジネスオンライン」の読者コメントは、そういう尋ね方をしてこないんです。自分はここでこういう花を見たよ、みたいな読者自身ことが書いてあったりして。それはうれしいですよ。

俯瞰の視点で書くと、反応は薄くなる

市川先生はウェブ媒体で何か書いていらっしゃいますか。

市川:朝日新聞の「e BOOK AVENUE」で連載したり、産経新聞の「邂逅」というコラムが毎回WEBに転載されたりはしてます。でも、コメントとか特に来ないですよ。

:来ない?

市川:手厳しいコメントばかりで、担当の方が伝えないでくれているだけかもしれないけれど(笑)。でもそれって多分、書く側の性質にもよるんだと思うんです。僕が岡康道さんに親しみを感じるのは、岡さんの思考スタイルにある種の近しさを感じるからなんですが、ものごとを見るにも俯瞰的に距離をとったり、ある種の合理判断を優先したりしちゃう。活字にすると、鼻持ちならない感じになると思うんですが(笑)。

確かに。

市川:え。そう認められちゃうと、根が小心者なので動揺するな(笑)。

 ともあれ、そういう性質なので、例えば『強く生きるために読む古典』で紹介されていたカフカの『城』のような小説を、主人公に感情移入するより前に、「この小説の構造ってこうだよね」と理解しようとしてしまうんです。そのうえで書くので、読んだ方も「ふうん、そうですか」と思って終わりかもしれないし、ときに楽しんでくれたとしても、「俺はオマエの文章をこう読んだぞ」とは、わざわざ言ってこないんですよね。

:そうだよね。その俯瞰の視点からの話というのは、反応が薄くなっちゃう。だから敦の場所とはずいぶん違うよね、そこは。

市川:でも、そういう僕でも『強く生きるために~』を読むと、やっぱり揺り動かされるところがあって。普段フタをしているはずのところが開きそうになって、「あ、やばい」みたいな。

:何か踏んじゃったよ、みたいなね。

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