小田嶋:そうね。とにかく若者が難しいものをあえて読む、という風潮はなくなっちゃったよね。
岡:でも、その前には確実にあったわけですよ。だから、難しい本を読んだ、ということが自分自身であり、だとしたら本棚の本も絶対に捨てられないんだよ。
二度と読まない本を取っておく理由は
小田嶋:だから、あれは自我なんでしょうね。一種、トロフィーみたいなものでね。
岡:自我でもあり、トロフィーでもある。
小田嶋:だって経験って、どんどん喪失されていくばかりで、蓄積できないじゃない。だから何かを蓄積したい、と強く思っている人は本棚作りなんかに行くんじゃないのかな。それは俺、わりと早い時期に意識して、だったら本は捨てないといけないんだ、と心を鬼にして。

岡:お前は結構、本を捨てていたね。
小田嶋:どんどん捨てていた。でも、まあ、それは嫁さんが洋服を捨てないことに対する、一種、当てつけみたいなところもあった。
岡:女の人にとって服というのは、男の本と似たようなところがあるんですかね。
いやいや、私はばんばん捨てますよ。
岡:ばんばん捨てる?
うん。ばんばん。
(もう1人の女性編集者):私もばんばん捨てます。
(捨てられない男性陣):・・・・・・。
岡:だから本にはアルバムを捨てるのと同じような感じがありますよね。ああ、この本は高校のときに読んだ、これは大学のときに読んだって。
離婚したらアルバム捨てますか?
小田嶋:「岸辺のアルバム」というTVドラマがあったでしょう。あれは多摩川の洪水で、家と一緒に家族のアルバムが流れちゃったという話で、すごい喪失感が描かれていたけど、それはそういうものなんだろうね。
岡:アルバムは捨てられないよ。でも離婚すると、意外と捨てられたりするの。ま、これはもういいかな、って。
小田嶋:その意味を含めると、やっぱり本とは自我っぽい、という話になるね。
じゃあ、iPadの登場というのは自我の変化に関与していくということになるのでしょうか。
小田嶋:関与はするでしょうね。
岡:だって、すべての本がこの中(=iPad)に入っているというんだったら、本棚はいらないわけだよね。
小田嶋:カフカもトルストイもあって、日本で言うと芥川龍之介も、太宰治も全部入っている。シャーロック・ホームズもあれば、『おやゆび姫』もある。本棚の1個ぐらい、軽くあるでしょう。それらが全部、すんなり入っているんだからね。夏目漱石も、宮沢賢治も、森鴎外も、みんな入っている。鴎外の『ヰタ・セクスアリス』だって。
岡:だったら、もう、それだけでいいわけだよね(笑)。
デジタルで読む太宰は何か違うのか
ただ、自分で買って読んだ太宰と、iPadで読む太宰とは、果たして同じものなのでしょうか。
岡:そういう疑問はある。
小田嶋:そういう議論もあるんだけど、実は大差ないんだよ。俺、本の方はコレクターじゃなかったんだけど、レコードはコレクターだったのよ。LPレコードを山ほど溜めて、すごい場所を取っていたから、かみさんとかに嫌がられていたんだけど、レコードは絶対に捨てられない、と言ってかなり粘ったの。でもあるとき、かなり大きな決心をして、ほぼ同じものをCDに買い替えたわけだよ。
岡:レコードは捨てたの?
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