岡:ただ俺は高校の時代に読んだときに、最後の「雨の日など、節子の傷の痕は痛まないだろか。もし痛むのなら、抱いて暖めてやりたいのだが――」と、この部分に、何ってカッコいい終わり方なんだ、と感じ入ってしまったわけ。
小田嶋:そこに着目したのはさすがというか、俺もね、そこはしてやられたな、と思うの。この本は最後もそうだし、全編、異常に疑問形の多い文体なのよ。だろうか、であろうか、でしょう、なのかしら。人って、確信のあるときに限って、「だろうか」と言うんだよ。「僕は間違っているでしょうか」と言うとき、心の中では、「俺は絶対に間違ってねえ」と思っているでしょう。そういう感じのいやらしさがあふれている。
岡:いらいらする。
問いかけのマジックで幻惑
小田嶋:でも、その、答えを出さないで問い掛けだけで文を連ねていくという手法は、当時としては、やっぱり新しかったはずなんだね、きっと。
岡:当時としてはね。だって、同じ世代はみんな、熱狂していましたからね。
小田嶋:当時は、「なぜだろう」とか、「だろうか」みたいなことで生きていた人たちが結構いたからね。あともう1つはね、これ、登場人物がすかすかと死んでいくじゃない?
岡:そこは読み返しても安易でひどいと思った。冗談じゃないよ。
小田嶋:たぶん高校生ぐらいの人間にしか分からない感覚かもしれないけど、高校生ってやっぱりすごく苦しんでいるんだよ、高校生であるということに。あくまでフィクションではあるんだけど、明日死ぬか、今日死ぬかと思っていたりする。そういうことを抱えて生きている高校生って、人が死ぬ小説に弱いんだ。
岡:なるほど。
小田嶋:死んだ、という人間が残した文章だとか、死ぬはずになっている人間を描いた小説だとか、あるいは死ぬというテーマにすごく弱いの。そこがまたこの小説の小ずるいところで。
岡:僕はタイトルに参っちゃっていたんだよね。それと、柴田翔って名前もカッコいいと思っていた。あの、「翔」の字。
小田嶋:タイトルと芸名と、あと「だろうか、だろうか」の文体ですよね。きっと女性関係も、ちゃんと前のが終わらないうちに、次のが始まっていたりとか、そういうことですよ(笑)。
どこかにこんな女性がいるんじゃないか(妄想です)
それでも岡さんは、女性像がこの小説によって激しく影響されたということで。
岡:この中では、男も女も、登場人物が手紙をいっぱい書いている、という設定なんです。男から男への場合もあるし、女から男へ、男から女へという場合もあるんだけど、面と向かってはすらすらと言えないことを、何とか手紙で伝えようという。携帯もない時代で、しかも電話でもなく、そういうもどかしい思いを交わす青春の知的なグループの話というか。現実にも、そういう感受性の女性が、どこかにいるんじゃないかな、って思っていたら、そんな人、どこにもいなかった。
小田嶋:だいたい当時、本を読むというのは、あんまりカッコいいことではなかった。ちょっと隠さないといけないことだったから。
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