:言うわけがないよね。

小田嶋:何、言っているんだって。で、この節子って女が、1つ歳下で遠縁なのに、主人公と会話するときの言葉遣いが、「何をしていらっしゃったのかしら」って、全面敬語なんだよ。

確かに小説に登場する女の人の描き方としては、噴飯ものですね。

小田嶋:登場人物はみな、知的なエリートを気取っているけど、これはおそらくド演歌の世界の女だよ。ひらがなで「を・ん・な」と書くような。柴田翔だって暴走族の名前だよ、これ。

クリエイティブディレクター 岡 康道氏(写真:大槻純一、以下同)

:でも、反省も込めて言うけど、心を打たれていたわけじゃない、当時は。

小田嶋:そうだね。

:だから、読んだときは、それも含めてカッコいいと思ってしまったんだよ。だって僕たちの高校生時代は、全共闘の熱が冷めて、将来の仕事とか、大学へのビジョンとか何もなくなっていて、三無主義とか言われていた世代でしょう。ただただ生きていくだけの日々を過ごしていた僕らに、「熱情のようなものなんかはうそっぱちで、虚無感というのは当然なんだから、虚無に生きていくことにこそ意味があるんだ」的なことを示したわけですよ、この本は。だからこれを読むことによって、あ、この空っぽの状態でもいいんだな、知的にさえなれば、と思えたことは少なくともあった。

そういう感じだったんですか。

:70年代という当時を振り返ると、ああだこうだ、どうだこうだ、と小さい声でぶつぶつ言いながら、何もしない男、というのは、まあ、唯一残されたスタイリッシュな生き方のように見えたんじゃないかな。

虚無を語れるのは特権だ、という雰囲気

小田嶋:そこで一番腹が立つのは、こいつが語る、その虚無感とかいうやつだよ。

:そう、偽物のね。

小田嶋:俺、太宰治に関してはいろいろと留保があるんだけど、太宰の虚無感とか喪失感とか悲しみとかいうのは、好き嫌いはともかく本物なわけよ。だけど、こいつのはポーズなのよ。

:でも、当時で言えば、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』も、やっぱり同じようなにおいを持っていて。あれは虚無というほど深刻でもないけど、でも、何もしないことを肯定するのは変わらない。

小田嶋:それはそうなんだけどね、庄司薫はユーモアと軽みがあったのよ。所々、ニヤッとさせるところがあって、虚無感というほど深いもんじゃなくて、やる気しねえよな、といった、そういうダルさみたいなものだよね。でも、柴田翔のはさ、何だか特権的な虚無みたいな感じがするんだよ。

:私は東大である、と。

小田嶋:東大の修士に行っていないと、この虚無感は分かるまい、と、そういうやつ。

:しかも俺たちはこの本を読んだころ、東大に行くとどこかで思っていたじゃない(笑)? だからこの本はもう1回読み直すと、自分の醜さも見えちゃうわけ。柴田翔が悪いだけじゃなくて、俺も悪かった、というか。

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