「日経ビジネス電子版」の人気連載コラムニスト、小田嶋隆さんと、高校時代の級友、故・岡康道さん、そして清野由美さんの掛け合いによる連載「人生の諸問題」。「もう一度読みたい」とのリクエストにお応えしまして、第1回から掲載いたします。初出は以下のお知らせにございます。(以下は2021年の、最初の再掲載時のお知らせです。岡さんへの追悼記事も、ぜひお読みください)

 本記事は2009年7月17日に「日経ビジネスオンライン」の「人生の諸問題」に掲載されたものです。語り手の岡 康道さんが2020年7月31日にお亡くなりになり、追悼の意を込めて、再掲載させていただきました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

(日経ビジネス電子版編集部)

本編にたびたび登場したウワサの「T氏」こと、高木豊さんに今日はお越しいただきました。

:『人生2割がちょうどいい』の本を、高木さんは買ってくれたんだよね。

ありがとうございます。

:本屋で探してくれたんだよ。

高木:汗だくになって探しました。

各方面で在庫切れになっている中、本当にありがたいです。

:だよね。まあ、買え、と僕が言ったんだけど(笑)。

岡康道、伝説の「モルツ球団」に高木選手をスカウト

お2人がお知り合いになったきっかけは、何だったのでしょうか。

:もうずいぶん前になりますが、僕が電通時代に、サントリーの広告で「モルツ球団」を手がけたときです。

※ モルツ球団:1995年、96年に放映されたサントリーモルツのCFで編成された、引退選手たちによる“ドリームチーム”。メンバーは大沢啓二を監督役に、江川卓、川藤幸三、衣笠祥雄、田尾安志、高木豊、高橋慶彦、達川光男、原辰徳、張本勲、真弓明信、山本浩二、ランディ・バース。

高木豊(たかぎ ゆたか)
1958年山口県生まれ、中央大学卒。1980年にドラフト3位で横浜大洋ホエールズに入団。俊足、鉄壁の守備で2年目より1番セカンドのレギュラーに定着。1983年から4年連続で打率3割をマーク、1984年には56盗塁で盗塁王に輝く。1990年は打率3割2分3厘でリーグ2位。加藤博一、屋鋪要らとスーパーカートリオとして活躍した。1993年、当時巨人の駒田徳広獲得に伴う大量解雇で自由契約となり日本ハムファイターズに移籍。1994年に現役を引退、1995年フジテレビジョン野球解説者に就任。2001年には横浜の内野守備走塁コーチに就任するが、1年で辞任。再びフジテレビ解説者となり、「熱チュー!プロ野球2004」のベンチ解説などの傍ら、2003年より長嶋茂雄が監督を務めるアテネオリンピック野球の代表チーム内野守備走塁コーチを務めた。主なタイトルは盗塁王1回(1984) 、ベストナイン3回(1985、1990、1991) 、ゴールデングラブ1回(1983) 、オールスター出場8回。通算成績は1628試合出場、1716安打、打率2割9分7厘、88本塁打、545打点、321盗塁
(写真/大槻 純一 以下同)

高木:僕は、ちょうど引退したタイミングだったんですよ。

:モルツのメンバーを決めていたころで、セカンドが空いていたんです。で、タクシーに乗っているときに、「高木豊氏が引退しました」というニュースを聞いて。

高木空けていたんでしょう。

:うん、空けていたんだよ。まあ、空いていたんだけど(笑)。

高木:家に帰ったら、女房から「電通からコマーシャル依頼の電話があった」と言われて、何の話かと思ったよ。だって現役のときに来ないのに(笑)。

:モルツは引退した人たちのチーム。引退した瞬間に資格が与えられるんだよ。

高木:それで岡さんと会ったんだけど、忘れもしません。電通のビジネスマンと言えば、物事を理路整然としゃべってくるんだろうな、と思っていたら、会うなりすごいテンションで、僕の学生時代のことから、オタクネタのようなことまでを、いろいろ掘り出してくるんだよ。「何なんだ、この人は。ストーカーか?」と、思いましたよ(笑)。

岡さんは初めから極度にマニアックだった

例えばどのようなことを。

高木:例えば僕がスイッチヒッターだった年があるんです。

:スイッチヒッターだから、左ピッチャーのときは右打席に立ちますよね。だけど、山本和という左ピッチャーが阪神にいて、9回満塁のときに高木は左打席に立ったんです。それで、これは何かやるんじゃないかな、と期待してテレビを見ていたら、サヨナラ・セーフティー・バント。でも、それをやるんだったら、右でやった方がよかったんじゃないか、と思ったので、そんな質問をしたんだけど。

高木さんがスイッチヒッターだったのは、いつの話でしょうか。

高木:1984年かな、あれ。

1Q84。

高木:それ、会って話していたときから遡って11年前のことですよ。

ちなみに左打席に立たれた理由は何だったのでしょうか。

高木:技術的に右でそこまで達していなかったので。

:あのときはサインだったの?

高木:いや、僕の判断。その前に、大事な場面だから、右で立つと代打を送られてしまう、という意識があった。

:何をするかは関根(潤三)監督にも言わなかったの?

高木:全然。内緒ですよ、それは。まずは味方からだまさないとね。

:で、それをきっかけに高木はスイッチヒッターをやめているわけよ。

というような細かい話をされたんですね。

高木:だからこの人はちょっと変わっているな、と。

クリエイティブディレクター 岡 康道氏

:いや、そのときはプレゼンテーションですからね。こんないい話に乗らない手はない、という気持ちにさせなくちゃいけないでしょう、当然。普通よりもテンションは、もちろん高くなっていましたよ。それで、高木とよく話をするようになったのは、実際の撮影が始まってからですね。

高木:あのメンバーは大沢監督をはじめ、もう、とんでもない人たちがたくさんいて、とにかく一筋縄ではいかないわけです。

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