内田:コラムニストとも通じるような話ですな。
小田嶋:そう、コラムニストをずっとやっていると、紫綬褒章をもらう先ぐらい、70歳を過ぎたころに5年間ほどブレークが来るのではないか、と。
内田:でも小田嶋さん、今、ちょっとブレークが来ちゃっているからね。
小田嶋:いや、まだ違います(笑)。じいさんにかんしては、うちのおやじはすごく悔しかったらしいです。よいよいでやって来て、片手間のように仕事をして、それで稼ぐ、というんだから。でも、生涯貧乏していましたけどね。つまり70歳まで貧乏していた、ってことだから(笑)。
内田:だから負けている時期をどう愉快にしのぐかということは、やっぱり大事なんですよ。弱い、早い、明るい、と。この、最後の「明るい」が、とりわけ大事なんです。
小田嶋:負けても、くさくさしない、と。
小田嶋さんがそれをできるのはなぜですか。
小田嶋:あんまり勝つと思ってないからかもしれない。
俺にとってマージャンというのは、とにかく打つのが楽しくて、みんなでわいわいやるのが好きなものだったから、負けてもそんなに暗くならなかったですね。あと俺は、メンバーと比べれば、そこそこ豊かだったということです。親から金をふんだくっていましたから。
内田先生は明るいタイプなんですか。
内田:僕は基本的に明るいですよ。僕も結構、負け時期が長かったから。
いつぐらいの時期だったのでしょうか。
内田:ずっとですよ。
ずっと。
後輩に「内田くん、お茶」と言われて
内田:20代はまったく食えなかったし、その後、東京都立大学の助手になってからは、お給料はもらってはいたんだけれども、今度は(大学教員の)公募を出しても出しても落ち続けるという。39歳で今の大学にひとつ職を得るまで、すべて落ち続けたということで、39歳まで就活していたんですよ、俺(笑)。
小田嶋:助手時代の30代というのは、学者の卵みたいな扱いになるんですか。

内田:そうですね。待合室にいる、という感じですかね(笑)。どこかに専任を見つけて2~3年で出ていけよ、と言われながら、ずるずると8年もいたんですよ。周りでは僕より若い人たちが次々と入ってきて、その人たちを「先生」と呼びながらお茶を出したりして。昔は俺のことを「内田先輩」と言っていた後輩が、よそからまた都立大に戻ってきて、そのうち先生になって、「内田君、お茶」「あ、はい」なんてことになって。
小田嶋:ああ、いい話ですね。
内田:結構切ないですよ。
それはどうやり過ごしたんですか。
内田:合気道なんかをやってね(笑)。
学者のレーティングは案外うわさ話で決まる?
小田嶋:そういう象牙の塔というのか、ああいうところは、上下関係とか今でもすごくあるものなんですか。
内田:研究者の世界だから、どれぐらいのレベルの学者なのか、ということについてのレーティング(査定)というのは、これは厳しいですよ。
小田嶋:そのレーティングも、猿山構造になっていたりするんですか。
内田:給費留学生でどこそこに行ったことがある、学位は何々を持っている、何々先生の弟子だった、とかですね。
小田嶋:そっちのブランドが決め手になるという。
内田:それはそうですよ。あいつ、この間、朝日新聞に何か書いたらしい、とか、「現代思想」に書いたらしいとか、そういうので順位が日替わりで変わっていく、みたいな、そんなことばっかしやっているわけですよ。
だから特に30代の学者なんて、院生も含めて、誰が誰に可愛がられているらしいとか、どこそこに書くらしいとか、そういうウワサ話みたいなのが飛び交っているわけです。切ないですよ、そういうところで日々だんだんポスティングが下がっていく、というのはね(笑)。
小田嶋:それは超然としてばかりもいられないでしょう。
内田:していられないですよ、30代でこっちはね。自分としてはいい仕事をしているつもりなのに、まったく評価されないわけだから。それは仕事をしていなきゃいいですよ。合気道をやって、マージャンをやって、いいよ、給料をもらっているから、と思えれば。でも、そうじゃなくて、一生懸命論文を書いて出して、学会発表もして、本も出版しているのに、誰からも評価されない、という。みんなから「内田、レヴィナスなんてやっていてもだめだよ、みんな知らないんだから。もうやめなよ」って言われてね。って、そりゃあそうですわね(笑)。
そういうのを脱した分水嶺みたいなのはあるんですか。
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