「あれは……だ」などと簡単に決めつけるようなことは、もうしない。
「自分には、そういうふうに見える」というふうに受け止める。
そして、「そう見える自分の事情、そう見える仕組みを、まず解明しなければいけないな」と思う。
ぼくらは「超越論的」に自己批評(批評も批判もドイツ語で「Kritik」)するのである。

差別問題について、歴史解釈について、民族問題について。また、さまざまな価値観の衝突について。

自分と敵対する相手を、生まれついての悪人、救いようのない馬鹿、和解不能の異常者と見なすのは簡単だ。とても簡単で、少し快感で、しかし、決して問題を解決することなく混乱と暴力をエスカレートさせる誤ったやり方だ。

相手を悪・馬鹿・異常と決めつける前に、少なくともそれと同時に、「超越論的」な自己批評が欲しいとぼくらは思っている。

ぼくらは「超越論的」に考える時代に生きている。
そういう今は、きっと、少なくともその点にかぎっては、昔よりずっといい時代に違いない。

〔……〕唯物論、宿命論、自由思想的無信仰、狂信および迷信のような、一般の人々に害毒を与えるおそれのあるものにせよ、また観念論、懐疑論のように、どちらかと言えば学派にとっては危険であるが、しかし大衆のなかへはなかなか入りこみにくいものにせよ、すべて批判によってのみ根絶せられ得るのである。

ぼくは「本の読み方」を教わった

『純粋理性批判』は、人生の節目に読んだ本ではない。特別な記憶と結びついた本でもない。読み抜いたとか、ガツンと強く固い手応えを覚えたという本でもない。だから、この本について語っても、感情的になることはない。

そんな程度の読み方で、「『純粋理性批判』を読んだ」なんて、言っていいのかどうかもわからない。

もちろん、それでも、ぼくは『純粋理性批判』から、いくつものことを学んでいる。

ダメだと思ったら、常識はずれでもいいから、正反対のことをやってみろ、という「コペルニクス的転回」。

「超越論的」にアプローチすること、つまり、「そんなふうに見えるってことは、いったいぼくはどうなっているんだ」と、それまで意識していなかった自分自身について、さかのぼるようにして考えること。

しかし、ぼくにとって最も大きな収穫は、実は、「本の読み方」を教わったことである。

本を読み、言葉を理解する。それは、どういうことなのか。
ただ、暗記した言葉をそのまま口に出すのではなく、自分なりに受け止め、自分なりに使えるようにし、自分の思考や感情が広がるように言葉を理解するには、どうしたらいいのか。

「超越論的」という言葉を理解しようと悪戦苦闘しているとき、実は、本の読み方と言葉の理解の仕方を、ぼくはカントに指導してもらっていたのである。何年もかけてコツコツと。今になって、そう思う。そして、本当にありがたいことだったと思う。

「本の読み方」は、ぼくにとっては、きわめて大切な思想であり技術であり武器である。
それを指導してくれた『純粋理性批判』は、ぼくが生きるためには絶対に必要な本だった。

だから、「生きるための古典」の一冊として、どうしてもぼくは書きたいのである。

(文・イラスト 岡 敦)

記事中の引用は、下記の本に拠りました。

カント『純粋理性批判』(全3冊)篠田英雄訳、岩波文庫、1961-1962年

 (この記事は日経ビジネスオンラインに、2010年2月16日に掲載したものを再編集して転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。なお、本記事が掲載されていた連載「生きるための古典 〜No classics, No life! 」は、『強く生きるために読む古典』(集英社新書)として刊行されています。)

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