真っ暗闇の中で、懐中電灯がひとつ灯っていて、それに照らされているところだけが、見える世界、経験の世界、ぼくの世界だ。
その世界の中には、当然だが、懐中電灯そのものは含まれていない。
どんなに明るい懐中電灯でも、どんなに向きを変えても、懐中電灯そのものを照らすことはできない。
つまり、懐中電灯そのものは、人間には決して見えない。認識できない。経験できない。
『純粋理性批判』の著者、もともと自然科学の論文を書いていたカントは、認識できないもの、経験できないものを扱うことを嫌う。超越的なものに冷淡だ。そんなもの、知りようもないし、語りようもないではないか。
しかし、人間が見ている世界はどうなっているのかを知るためには、暗闇の中の懐中電灯(認識の仕組み)、この見えない(認識も経験もできない)ものを、何とかして知らなければならない。
どうすれば知ることができるのか?
そもそも、どうして、懐中電灯がそこにある、と言えるのか?
見えもしないのに?
「超越論的」とはこういう意味だ
どこまでも論理的に考えればよい。
ぼくらは、照らされた世界を見ている。そういう経験は、確かにしている。
では、その経験が成り立つためには、そもそも何がなければいけないか、と論理的にさかのぼってみよう。
明かりで照らされて、ぼくらには物が見える。
ということは、あたりまえだが、明かりが発せられているということだ。光源がある。
その光源の、光を発しているのと反対の側に、きっと懐中電灯の本体があるに違いない。
そこには、電球があり、電池があり、電池ケースもあるはずだ。
暗闇なので見えないけれど、そう想定してもいいではないか。
こんなふうに、実際には見えないけれど、「ぼくらの経験がこうなっているのだから、その前提としてこのような仕組みになっているハズだ」と考える(経験を可能にする仕組みを、論理的に必要なかぎりで想定する)。
そういうアプローチの仕方を「超越論的」と呼ぶ。
私は、対象に関する認識ではなくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方〔……〕に関する一切の認識を先験的(traszendental〔=超越論的〕)と名付ける。
※筆者注:「先験的」も「超越論的」も、ドイツ語transzendentalの訳語だ。昔は「先験的」と訳されていたが、最近は「超越論的」と訳されるようになっている。岩波文庫版『純粋理性批判』は、1960年代初めの訳なので、「先験的」と訳されている。
近現代の思想への大きな影響
マルクス、ニーチェ、フロイト、ソシュールは、現代思想のルーツと呼ばれる。
20世紀以降、この4人の誰にも影響を受けなかった思想家などいないからだ。
大ざっぱな話になるけれど、この4人の考え方には共通性がある。
それは、
「人間は、自分の頭で自発的に考えていると思っているが、そうではない。われわれは、別の何かによって考えさせられている。われわれの思考が操られるような仕組みがある」
と考え、そのうえで、それぞれの思想を構築している点だ。
「ぼくらにはこう見える」
ということは、「ぼくらがそう見てしまう仕組みがある」ってことだ。
その仕組みはぼくらの目には見えないけれど、それをこそ、研究しなければいけない。
彼らは、そんなふうに考えている。
それをカントの影響だと言っていいのかどうかはわからないけれど、4人の思想家もぼくらも、いわば「超越論的」に考える時代を生きている。
実際ぼくらにしても、そんなふうに考えているではないか。
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