マジメ人間がヤケクソになって、試しに、常識と反対の発想をしてみた。その帰結が『純粋理性批判』という本だ……。

そんなふうに思うと、カントと『純粋理性批判』に、ぼくは強い親近感を持った。不遜な話だけれど、この人は信用していい、この本は愛すべき本なのだと思った。

ロメールの「春のソナタ」

エリック・ロメール監督の映画「春のソナタ」の中に、主要な登場人物たちが、カント哲学について語り合う場面がある。

リセの哲学教師ジャンヌ、彼女の年若い女友達、その父親、および父親の恋人。4人で食事をしている。
父親を間に挟んで、恋人と娘(ジャンヌの女友達)は険悪な雰囲気だ。
会話は主として、ジャンヌと恋人のやりとりで進む。話題は、ジャンヌの仕事(哲学教師)から、カント哲学に移る。そのとき、恋人は突然、娘に話を振る。

「『超越論的』って、意味わかる?」

恋人の意地悪な予想どおりに、間違った説明を始める娘。恋人は、嘲笑を浮かべながら言う。

「みんな間違えるけれど、超越論的という言葉は、超越的とは意味が違うのよ」

意地は悪いが、「カント用語の『超越論的』とは、超越的という意味ではない」というのは、そのとおりだ。
そして、「みんな間違える」というのも、そのとおりだ。

たとえば、ぼく。せっかく序文を抜け出しても、本文を読み進められなかったのは、『純粋理性批判』のキーワードのひとつ「超越論的」(岩波文庫では「先験的」と訳されている)の意味が、ピンとこなかったせいである。

「超越論的」とは、どういう意味なのだろう?

闇夜を照らせても、懐中電灯そのものは見えない

『純粋理性批判』は認識論の本である、と言うことができる。
カントはこの本で、人間は世界をどうやって経験するか、人間は世界をどう見るか、と考えているのだ。

人間は、自分の外の現実を「そのまま頭の中に反映させて」見ているのではない。ピンホールカメラのように、外の映像をそのまま頭の中に取り入れているわけではない。
人間は、そんなふうに一方的に受け身になって、外の物を見させられているのではなく、むしろ、人間の側が見ようとするものだけを見るのだ。
カントは、そう考える。

ちょうど次のような感じだ。

真っ暗闇の中、懐中電灯らしい光が灯る。
その明かりで照らされているところだけが、目に見える。
そこだけが、人間が経験できる世界、人間の世界、ぼくの世界だ。
(その在り方を「経験的」と呼ぼう。人間が経験して、確かめられるものだから。)

光の外、闇の中には何がある?
何も見えない。
だが、人によっては、闇の中に魔物がいる、と言い張るだろう。
決して見えないが、妖怪がいる。ほら、そこに。
(その在り方を「超越的」と呼ぼう。経験を超越しているものだから。)

人間の世界、経験の世界に視線を戻す。そこでは、光に照らされているものだけが、見えているのだった。
それは在るから見えるのではない。在って、しかも人間が見ようと思って光を当てるから、見えるのである。

懐中電灯のスイッチを切れば? もう何も見えなくなる。
懐中電灯の光の色が変われば? 見える物の色調も変わる。
懐中電灯の向きを変えれば? 影の出来方が異なり、物の表情も異なってしまうだろう。

人間が経験する世界がどのように見えるかは、懐中電灯の具合(人間が持っている認識の仕組み)に依存しているのである。

では、人間の世界がどのようなものかを決定している懐中電灯(人間の認識の仕組み)、それは、いったいどのようになっているのだろう。ぼくらは人間が経験する世界を知りたいのだから、それを決定づけている懐中電灯を調べよう。

すると、ここで困難に突き当たる。

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