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 アドラーは次のようにいっています。

「いかなる経験もそれ自身では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック―いわゆるトラウマ―に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与えた意味によって自らを決定するのである」(『人生の意味の心理学(上)』)

 あることが原因となって、必ずあることが帰結するという考えを「原因論」といいます。災害や事故に遭ったこと、事件の現場に居合わせたこと、また幼い頃に虐待を受けたことなどによって、人は必ず心に傷を受けるというのであれば、過去にある原因を過去に遡って除去できない限り、現在の問題は解決できないことになってしまいます。

 一方、アドラーは、「目的論」を採ります。同じ経験をしたからといって、誰もが同じようになるわけではない。強いショックを受ける経験をしても、その経験の中から自らが「目的に適うもの」を見つけ出すと考えるのです。経験をどう意味づけるかが人によって違うのは、この目的が異なるからなのです。

 アドラーは、「Aだから(あるいはAでないから)Bできない」という論理を日常のコミュニケーションの中で多用することを「劣等コンプレックス」と呼んでいます。

 劣等感というと、ネガティブな言葉に聞こえますが、劣等感自身は悪いものではありません。それは誰にでもあり、「健康で正常な努力と成長への刺激である」(『個人心理学講義』)とされています。つまり、劣等感を持つことで、努力をし、成長へと自らを導くことができたとしたら、それは悪いことではないというわけです。

 一方、アドラーのいう劣等コンプレックスは、仕事、交友、愛という人生のタスクを回避するために使われるものです。努力や成長につながり得る「劣等感」とは違い、逆に人生の問題を避けるための「道具」として使われる言葉です。

 さらに、「AだからBできない」という時の「A」として持ち出される理由は、他の人がそれを聞いた時、「なるほど、そういう理由があるのなら仕方がない」と納得するしかないようなものを用います。

「AだからBできない」は本来ありえない

 アドラーは、今の自分のあり方について、過去に経験した出来事や生育歴などを原因として持ち出して説明することを「見かけの因果律」と呼んでいます。「見かけの」というのは、「AだからBできない」という時のAとBには実際には何ら因果関係はないと考えるからです。同じ経験をしても、すべての人が同じようになるわけではありません。

 例えば、きょうだい関係について見ると、兄は妹が生まれなかったら問題のある子どもにならなかったかもしれませんが、妹が生まれたからといって兄が必ず自分だけにそれまで向けられていた親の注目、関心、愛情を妹に奪われることで、いわば王座から転落し問題のある子どもになるわけではありません。石であれば必ず一定の方向に一定のスピードで落下しますが、「心理的な下降」においては厳密な因果律は問題にならないのです(『子どもの教育』)。

 それにもかかわらず、今のあり方と過去の出来事の間に因果関係があると見なすのはそうしたい「目的」があるからだ、とアドラーは考えます。子どもの頃に両親が離婚しているので結婚できないと思い、虐待されたので出産に自信がないというのは、過去の経験を理由にして、結婚や出産をしないでおこうとする目的があると考えるのです。