ソクラテスに死刑判決を下したのは、2400年前のアテナイ市民ばかりではない。

ぼくら自身が、日々、「うるさいソクラテスよ、消えてなくなれ」と死刑にしている。

そうやって、理想など忘れた自分の生活を、なんとか否定しないで送ろうとしているのだ。

ソクラテス「への」弁明

ひとは何かの力によって、押し出されるようにして生きていく。

人生の歯車の最初の1ミリの動きは、それは自分の意志によって動かしたのかもしれない。しかし、その動きは少しずつズレていく。はじめは見えないほどのズレが、だんだんと狂いを生じさせ、気がつくと、その影響は取り返しがつかない範囲にまで広がっている。いつのまにか、想像もしていなかった奇怪な運動に巻き込まれて、もう自分には動きを変えることも止めることもできない。

他人はそれを自業自得と言うだろう。オマエは好きこのんでそうしているのだと。

そう言われれば、そうかもしれない。うなずいてしまう。

いや、だが、しかし、違うのだ。
こんな状況、誰が望んだりするものか。

ソクラテスに言ってやりたい。

「知者」たちだって、仕方なかったのだ。彼らだって心の底では「本当に知るべきこと」、イデア、理想を求めていたかもしれない。でも、どうせ生活に追われてそれどころではないオレたちだ、できもしないことを語るのはみっともない、何も知らないことにしておこう……心の中で悔し涙にくれながら、無知のフリをして見せたのかもしれないではないか。

そんな彼らの気持ちを、一度でも想像したことがあるのか、ソクラテス?

……とソクラテスに食って掛かって、けれども、その後で、やっぱりもう一度、ぼくはソクラテスと話をしたいと思う。なぜだかわからないけれど、懐かしいのだ。ソクラテスをやっかい払いしたアテナイの市民たちも、きっとすぐに後悔して、ぼく同様、ソクラテスと話をしたいと思ったはずだ。根拠はないが、そう確信する。

ソクラテスは言うに違いない。

いや、押し出されるようにして生きていることは、ちゃんとわかっている。

私だって、そうだ。自分では一冊の本も書かず、そのくせ同時代の戯曲には滑稽な人物として描かれているんだよ。あやうく後世の人々に、笑いものにされるところだったね。

ところが人生の最後、捨て身のパフォーマンスによって、状況は一気に逆転した。私は、もしかしたら「哲学者」のイデアをかいま見せることができたかもしれないし、友人や弟子たちは多くの記録を残して、私の哲学をきちんと伝えてくれることになった。

ほら、私だって思い通りに生きたわけではないよ。だから、みんな不本意ながら、押し出されるようにして生きているというのは、そのとおりだとわかる。「知者」たちの心情だって、もちろん知っているさ。

しかし、そのうえで、私はあえて、イデアを見よ、理想を求めろと言うのだ。鬱陶しいかもしれないけれど、何度でも言うさ。
だって、本当に押し出されて行くだけで、キミは納得して生きていけるのかね? 理想を求めることもなく、それで生き続けられるのかね?

おっしゃるとおりです、ソクラテス

「いや、まったくです」と、まるでプラトンの「対話篇」の登場人物のように、ぼくは素直に答えるだろう。

「おっしゃるとおりです、ソクラテス。理想なんて言っていられない、これで精一杯だと、いつだっていくらだって言い訳はできるし、事実そのとおりなのだけれど、本当は、自分でも納得なんかできやしません。無理だろうと無茶だろうと、青臭くて現実味がなかろうと、ぼくらはろくに残ってもいない力を振り絞り、やっぱり理想を求めるしかないのです」と。

(文・イラスト 岡 敦)

記事中の引用は、下記の本に拠りました。

プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』三嶋輝夫・田中享英訳、講談社学術文庫、1998年
(クセノポンが書いた「ソクラテスの弁明」も同書に収められています。)

 (この記事は日経ビジネスオンラインに、2009年11月24日に掲載したものを転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。なお、本記事が掲載されていた連載「生きるための古典 〜No classics, No life! 」は、『強く生きるために読む古典』(集英社新書)として刊行されています。)

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