いや、もっと具体的に語れと言われても無理だ。説明できない。せいぜい「気配」「イメージ」「胸騒ぎ」として感じるしかない。

ところが、「ハグラー対レナード戦」を見たときには、その「理想のボクシング」の姿がボンヤリとだが、眼に見えた気がした。

神々しく、美しいボクシング。身体の移動、拳の交換、その動作のひとつひとつが神々の聖なる戯れのようにも見える。そんな晴れやかでみずみずしく、どこまでも肯定的な試合があり得る……。

これが「イデア」である。

現実のもの(試合)を通じてイデア(この場合は「ボクシングのイデア」)を見る(知る)。そのときぼくらは感動する。見ている当のもの(試合、さらにはボクシング)だけでなく、自分や世界までもが肯定されているように感じる。

ソクラテスが考える理想の生き方

また、たとえば、毎日あちこちの画廊へ足を運び、絵画を観るとしよう。

もしかしたら、その多くはつまらない展覧会、パッとしない作品かもしれない。

ところが数か月に一度、数年に一度、「これはすごい」と目を見張る作品に遭遇する。

他の作品と比べて優れているというのではない。「絶対的にすごい」のだ。

そんなとき「絵画ってすばらしいな」と思う。

実際に眼にする作品のほとんどはつまらないのに、わずかその一点によって、「絵画」なるものが肯定されてしまう。それまでの「ハズレ」の経験も、それなりにみんなよかったと言わんばかりだ。

そうして、ぼくは、やけにうれしくなる。誰に向かってだかわからないが、「ありがとう!」と笑顔で言いたくなる。絵画だけでなく、ぼく自身も、この世界も、みんな肯定されてしまうのである。

上の「絵画」という語は、他の芸術、スポーツ、仕事、趣味、何に置き換えてもいい。
誰にでも、同様の経験があるはずだ。

そのとき、「イデアをかいま見た」と言おう。
直接見ることはできないイデアを、しかし、何かを通して知ったのである。

このイデアこそ、ソクラテスが言う「本当に知るべきこと」だ。
ソクラテスにとって「知る」とは、単に知識を付け加えることではない。それは、ひとつの鮮烈な体験であり、自分と世界を肯定することである。このような経験抜きに、つまり「絶対的にすごい」「イデアをかいま見た」という経験なしに何かを見聞きして知ったとしても、そんなものは、ソクラテスは本当の知識とは認めない。

イデアを求めること以外はつまらないことだ、という姿勢をとれ。
そして、それを見るように、あるいは見せられるように、全力を尽くせ。

それが、ソクラテスの理想の生き方である。

鬱陶しいぞ、ソクラテス

確かに、誰も彼もがイデアを求め、イデアを見せられるような仕事をすれば、それは素晴らしいことだろう。

誰もが「これぞ消防士」「これぞ家具職人だ」等とうならせるような仕事を心がける。

スポーツ選手は、「これが野球だ」「これがサッカーだ」等と感動させるような素晴らしい試合を心がける。

なんて魅力的で活気のある社会だろう!

とは言え、現実のぼくらは、古代ギリシアの哲学者ではない。日々、せこせこと生きている。

イデアを求めるより、まず目先の小さな利益を求める。理想なんて考える暇がない、とりあえず納期までに完成させて次の仕事につなげるだけだ。

そんなやりくりで今日をしのぎ、一年を耐え、たちまち十年が過ぎていく。

そんなぼくらのもとへ、ソクラテスがやって来る。
そして、オマエは無知だ、イデアを求めない、本当の仕事をしようとしない、と嫌みを言う。

「ソクラテスとは、なんて鬱陶しい男だろう。どこかへ消えてくれないかな」とみんな思う。
ぼくも思う。

だからソクラテスは訴えられ、有罪にされ、死ぬはめになったのである。

プラトンは、次のようなソクラテスの言葉を記録している。

〔……〕皆さんは私〔ソクラテス〕の同国民であるにもかかわらず、私がいそしんでいる活動と言論に耐えることができず、その活動が皆さんにとっていささか重荷でもあれば厭わしいものともなった結果、それから今や解放されることを求めているのだ〔……〕

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