「神のお告げを疑うわけにはいかないが、私がいちばん知恵があるはずはない。もっと知恵のある人はいる。大勢いる。彼らと話をして、まず、その事実を確認しよう。そうしたら、お告げに隠された深い意味がわかるかもしれない」

ソクラテスは、自他ともに「知者」と認める人々のもとを訪れた(当時、「知者」と呼ばれたのは、政治家、職人、作家だという)。ソクラテスは彼らと話をした。この人たちは、必ず、自分より知恵があるはずだと思って。

ところが、何と言うことだろう。ソクラテスは「お告げの反証」を求めていたのに、逆に「お告げの正しさ」が確認されてしまった。「知者」と見られている人たちは、誰ひとりとして、ソクラテス以上に知恵を持ってはいなかったのである。いや、問題は知識の量ではない。質だ。

「『知者』たちは」とソクラテスは斬って捨てる、「本当に知るべきことを知らずにいる」と。

では、オマエはどうなんだ? と「知者」たちはソクラテスに問い返すだろう。ソクラテスよ、オマエは「本当に知るべきこと」を知っているのか。

ソクラテスは、おとぼけ屋で有名だ。平然と「私も知らない」と答える、「ただし私は『自分は知らない』ということを自覚している、その分だけ知恵があると言えるだろうな」と。

「自分は知らない」と自覚しているかいないか。確かに、この差は大きい。

無知を自覚している人はこれから知ろうとする。追い求める。しかし、自覚していない人は知ろうともしないのだから。

「“知らない”ことを知っている」は、実は本題ではなかった

いや、しかしソクラテスは「知ったかぶりはいけない」「謙虚に学べ」と戒めているのではない。

そもそも普通に考えれば、どの「知者」も立派な人たちだった。
政治家は実務能力に長け、職人は見事に仕事をこなし、作家たちは巧みに言葉を操っている。みんな、社会人として立派に活動し、地位を築き、暮らしているのだ。「知ったかぶり」なんかではない。いろいろなことを、よく知っていた。

しかしソクラテスは、そのような現実的な知識には、少しも価値を認めないのである。

ソクラテスは、ひたすら(彼言うところの)「本当に知るべきこと」にこだわる。それを求めているかいないかによって、人(の行動)の価値を判断する。「本当に知るべきこと」を求める人は良い。それを求めない人はダメ、と。

ソクラテスがそれほどまで価値を置く「本当に知るべきこと」とはいったい何なのか?

『ソクラテスの弁明』にはハッキリとは書かれていないが、プラトンの他の本を見ると、それは「イデア」のことだとわかる。

おお、これぞボクシング!

たとえば、とびぬけて素晴らしいボクシングの試合を見る。

1987年4月に行われた「マービン・ハグラー対シュガー・レイ・レナード戦」もそのひとつだ。

舞台はラスベガス。技術、体力、精神、キャリア、どれをとっても史上最高レベルの選手ふたりが激突する、文字通りの頂上決戦だ。

結果を言えば、KO決着ではなかった。ダウンシーンもなかった。いや、打ち合いさえろくになかった。

しかし、何という試合だったろう!

過去に観たすべてのボクシングの試合と引き換えにしても惜しくない、ぼくはそう思ったほどだ。

そして、こういう試合を観ると、誰もが口にするであろう言葉を、やはりぼくも、興奮して叫んだ。

「これぞボクシング!」と。

イデアを見る瞬間は誰にでも

思わず口にした「これぞボクシング」という言葉。その「ボクシング」の部分。これはいったい何を指しているのだろう?

目に涙をたたえ、感動に声を震わせながら言った言葉だ。当然それには、下から仰ぎ見るような、高い価値を見出しているはずだ。だから、人々が持っているボクシングの「通念」なんかではありえない。自分がそれまでに見てきたボクシングを足して割った「平均イメージ」でもない。ルールでも技術体系でも歴史でもない。

その「ボクシング」という言葉が指すもの、それは、ボクシングの理想のイメージである。

もし、神さまが「理想のボクシング」を創造するとしたら、それはこんなふうだろう、というような。

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