部下が失敗を繰り返すというような場合、私たちは往々にして、その部下の問題点を探ろうとします。叱責されると、すぐに会社を辞めるといいだすので、上司は自分が若かった時はそんなことはなかったと思ってみたり、失敗するのは部下が軽率だったり、集中力が欠けているからだなどといったりします。
このような場合、部下の家庭環境に問題の原因を求めることはないでしょうが、例えば、学校では、子どもが何か問題を起こした時、家庭環境にその原因を帰することはよくあります。
部下の失敗は仕事を任せた上司にもその責任があるはずですが、部下の性格などに原因を求めるのは、上司が自分の責任から逃れたいからであり、いわば安全圏に自分を置こうとしているのです。

しかし、これはちょうど学校の先生が、自分の教え方を棚に上げて、勉強についてこられないようだから塾にやらせてくださいとか、自宅で子どもの勉強をしっかり見てやってくださいと親に勧めるのと同じです。このような考えでは、上司には部下の問題に関してできることは何もないことになります。
性格は誰かとの関係の中で自らが「決める」もの
では、どう考えればいいでしょうか。部下が失敗をすることに自分は何か関係があるのではないか、自分との関係の中で部下が失敗を繰り返すという“選択”を敢えてしているのかもしれないと考えてみるのです。
人の言動は、誰もいない、いわば真空の中で行われるのではありません。必ずそれが向けられる「相手役」がいて、その相手役から何らかの応答を引き出そうとしています。
性格も一人で生きているのであれば、問題になりません。アドラーは「人は、性格を誰かの前で、誰かとの関係の中で決める」と考えます。
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