「達成するまでは、何ごとも不可能に見えるものだ」。これは、最近のダボス会議の開会式で紹介されたネルソン・マンデラ氏のお言葉ですが、この言葉は、ウォートンに行く前に聞いておきたかった…。
吹きっさらしの橋の上。
寒さで、気持ちも寒々しくなってきていて、次にこみ上げてきたのは、「アメリカに来ても随分と差別されたなぁ」という感慨。
建国以来の歴史がそれほど長くないアメリカの中で、フィラデルフィアは、古都に属する方で、比較的保守的な人たちが住んでいます。
英語をネイティブのように話せないからでしょうか。つまらないことですが、お店で、自分よりも後に並んだアメリカ人のオーダーが優先され、挙句の果て、私のオーダーを聞くやいなや「Say it again!」とわざと聞き取れなかったフリをする。そんな難しいオーダーをしているわけじゃないので、本当は分かっているだろうに…。眉間に皺を寄せて、顔を歪めて「Say it again!」と言われると、もうそれだけでこっちは萎縮します。
ひどい差別があるから「差別はいけない」が意味を持つ
小さい差別であっても、積みあがると、確実に心を傷つけます。「差別はいけません」と声高に言うのは、差別があるからなのだと、住んでみて初めて分かりました。とはいえ、アメリカだけじゃなくて、どこの世の中にも差別はあります。
ある年齢以上の働く女性は案外皆そうかもしれませんが、私は日本で社会人になってからずっと差別される側にいたので、フィラデルフィアで差別されても、既に差別に対する耐性ができていたのか、あまり大きなショックは感じませんでした。でも、差別のない世の中はないのだということだけは、しみじみと実感しました。「若く経験がないこと」「女性であること」「日本人であること」が差別を受けた3大要因。でも、どの要因も自分で変えることはできません。コントロール不能。
急に歳はとれないし、性転換は望んでいないし、日本人でいいし。
自分で変えることができない要因で起こることに対して戦わない姿勢ができてしまったのは、この頃の影響かもしれません。3大要因を前提として、いかに心地よく生きていくかを考えた方が生産的。世の中を恨んでいる場合じゃない。こっちは、今だって生きるのに精一杯なのだから。そうやっているうちに、世の中は、少しずつ差別のない方向に向かっています。こういうことは、少しずつしか変わりません。
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