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19世紀、日本の周辺も「世界史の海」に

 17世紀に鎖国が可能だったのは、西洋列強のシーパワーが未熟で、西洋とアジアを結ぶコミュニケーション(交通)線が細かったからである。だが、19世紀になると西ヨーロッパの海洋国家がしのぎを削る中でイギリスが海洋の覇権を握り、インドや中国へとその範囲を広げた。一方、シベリア開発に取り組むロシアや、西部の開拓を終えたアメリカも東アジアへの接近を図るようになった。こうして、東アジアに至るコミュニケーション線が拡大され、日本周辺の海は「世界史の海」になったのである。

 シーパワーを伴った西洋列強の出現は、「夷」の上に君臨する征夷大将軍の存在を揺るがす事態であった。江戸時代の将軍権威を高めていた肩書きによって、幕府は「征夷」「攘夷」というかつてない外交上の責任を負うことになった。しかし、幕府にそのような責任を遂行する実力はなかった。

 内憂外患の19世紀前半、幕府が全力を挙げて取り組んだ天保の改革も挫折し、幕府の統制力は失われつつあった。そのような中、薩摩や長州など西南雄藩は、抜け荷、つまり長崎を経ない密貿易によって財政難を克服。洋式砲術を導入して藩の実力強化を図った。鎖国の狙いの1つは、外様諸藩が密貿易を通じて力を付けることを防ぐことにあったが、幕府には抜け荷を取り締まる海軍力がなかったのである。

 幕府の統治は、封建制度を肯定する朱子学に支えられていた。このため幕府は、洋学の導入に当たって、科学技術などの実学に限定した。幕府批判を助長するかもしれない西洋の政治思想の研究は抑圧した。

 だが、幕藩体制が行き詰まる中で、新たな政治思想が生まれてきた。佐藤信淵らが広めた経世論は、諸外国との交易の重要性を説き、鎖国政策を批判した。そして、林子平らが唱えた海防論は、海軍力を強化することで対外的危機に対応する政策を求めるものだった。

 このように、200年近く続いた幕府の鎖国政策は、国外及び国内からの圧力にさらされるようになった。そこに、ペリー提督率いる黒船が来航した。これに続く開国を機に、鎖国によって抑えられてきた海外進出のエネルギーが一気に解放され、明治維新を引き起こす原動力となっていくのである。

 このように、鎖国の間も、4つの窓を通じて徳川幕府は限定的にではあるものの外部と接触していた。幕府は海軍力を増強するのに十分な財源と造船技術を持つことができなかった。ただし、曽村保信氏が指摘するように、江戸を政治の中心に移したことは、その後の日本が海洋国家に向かう上で重要な決断だった。長らく日本の海洋活動は西日本に偏っていた。しかし、江戸湾は豊かな関東平野を後背地に持つ天然の良港である。ここを拠点とすることで、蝦夷地を含む日本全体が海で結ばれることになったのである。

■変更履歴
1ページ目の第6段落、記事掲載当初、「1836年」としていました。正しくは「1636年」です。2ページ目の第4段落に、記事掲載当初、「白石を退位させて」としていました。正しくは「白石の政治は短命に終わり」です。お詫びして訂正します。[2013/7/26 11:15]

 (この記事は日経ビジネスオンラインに、2013年7月26日に掲載したものを転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。)