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 1811年、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニンを日本側が捕らえた。ロシアは報復として日本人の商人を捕らえた(ゴローウニン事件)。幕府は一連の蝦夷地襲撃とゴローウニン事件は無関係であるとのロシア政府の説明を受けてゴローウニンを釈放し、ロシアとの緊張関係を緩和した。

 ロシアの南下に対処するため、幕府は蝦夷地を段階的に直轄地とし、東北地方の諸大名にその防衛を命じた。ただし、蝦夷地の防衛に当たったのは3000人規模の陸上部隊だった。海上戦力でロシア船を撃退するのではなく、沿岸防備に終始した。それでも、蝦夷地の防衛義務は東北諸藩に重い負担となった。1821年に幕府は蝦夷地を松前藩に返還した。

日本初の海軍を設置

 徳川幕府が消極的な外交姿勢を取ったのは、海軍力の不足が大きな理由だった。幕府は、1635年の武家諸法度で、諸大名が50石籍以上の軍船を建造・保有することを禁じた。それは、諸大名の水軍力を制限して、幕府に抵抗できなくするためであった。

 一方の幕府も「安宅丸」という大船1隻と小型船からなる水軍を保有したにすぎなかった。「安宅丸」は江戸湾の防備に当たったが、実戦を経験することもなく老朽化し、解体に至った。とはいえ、幕府水軍は「中央政権が常備する戦力」という意味で、それまでの私的な水軍とは性格が異なっていた。海軍を「国家が保有・維持する常備軍」と定義するなら、日本に初めて海軍が生まれたのである。

 幕府は、外国が攻めてくるとすれば長崎に侵攻してくると考えていた。このため、九州の諸大名に命じて長崎の防衛態勢を強化した。1647年にポルトガル船2隻が長崎に現れた時は、1000隻の船で長崎港を封鎖するとともに、ポルトガル船を包囲し、退散させることができた。しかし、1808年にイギリス軍艦「フェートン号」がオランダ船に偽装して長崎港に侵入した時には、小型船のみからなる幕府の海軍は全く対処できなかった。

 19世紀に入ると、イギリス船が頻繁に浦賀に来港するようになった。幕府は長らく、来航した外国船に対して薪水や食糧を与えて帰国させる方針を維持していたが、1825年に異国船打払令を出し、外国船の撃退を命じた。武力で威嚇することで、外国船の来航を阻止しようとしたのである。幕府は実際、1837年に浦賀に来航した外国船に砲撃し、退去させた。翌年には、日本人漂流民の送還を兼ねて来航したアメリカのモリソン号も退去させた。