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権威を高めようとしたもののシーパワーを欠いた

 このように、鎖国の間も徳川幕府は長崎、対馬、薩摩、松前の4つの窓口を通じて、異国・異民族との交流を維持した。東アジアには、中国を中心とする伝統的な・華夷秩序(冊封体制)とは別に、日本を中心とする国際関係が存在したのである。

 1644年、満州族の清が漢民族の王朝、明を滅ぼした。日本では、これが「中華」と「夷狄」の交代・逆転、つまり「華夷変態」とみなされた。そして、従来の中華思想を否定し、日本を「中華」とする考え方が生まれた。このため、幕府は清との国交樹立に積極的ではなかったのである。

 1711年に新井白石は、将軍の権威を東アジアにおける中国皇帝を中心とする秩序の下に位置づけようとした。その上で、朝鮮に対する日本の優越性を示すために、朝鮮との外交文書で「日本国大君」の称号に代えて「日本国王」を採用した。日本国大君は将軍を示す。華夷秩序では、「国王」の方が「大君」よりも上だからである。

 一方、白石の政治は短命に終わり、8代将軍に徳川吉宗が就くとは再び「日本国大君」を名乗るようになった。これは、中国とは異なる独自の理念に基づいて日本(将軍)が自らを「中華」とし、周辺地域を支配する――という姿勢を示すためであった。もっとも、「征夷大将軍」にとって、「夷」、つまり清や蝦夷や琉球などは征伐の対象である。しかし、「服従の意思を示す限りは実行を保留する」とした。徳川幕府は、将軍の権威を国内で高めるためにこのようなレトリックを使ったのである。

 対外的には、シーパワーを欠く徳川幕府は、周辺諸国との争いを避ける消極的な外交に終始せざるを得なかった。例えば、幕府は薩摩藩に対し、琉球に向かう冊封使を乗せた清船に手出しをせず、清との間で戦争を起こさないように下命している。同様に、明の滅亡後に抗清運動を続けていた鄭成功が援軍と武器の支援を求めてきた時にも、幕府はこれを拒んでいる。幕府はシャクシャインの蜂起の際も、清がアイヌに加担することを恐れた。

 1696年に起こった「竹島一件」、つまり鬱陵島の帰属を巡る朝鮮との外交問題でも、徳川幕府の消極的な外交政策がうかがえる。徳川幕府は1618年から、鬱陵島への渡海免許を発行。日本の漁民がアワビやアシカの漁に出るようになった。これにともない、隠岐と鬱陵島の中間点にある竹島が寄港地となった。だが、鬱陵島に朝鮮人が現れるようになったため、徳川幕府は朝鮮との友好関係を重視し、鬱陵島は朝鮮に帰属するとし、日本人の渡航を禁止した。

 この時幕府が渡航を禁じたのはあくまで鬱陵島だけで、竹島への渡航は禁止しなかった。しかし、韓国はこの時に日本が現在の竹島への渡航も禁止したため「独島(竹島の韓国名)は韓国領だ」と主張している。当時の徳川幕府の消極姿勢が、今日の竹島を巡る問題で韓国に利用されているのである。

 18世紀の後半に始まるロシアの南下により、蝦夷地の防衛が課題となった。幕府はロシアに対しても低姿勢を貫いた。ロシアはラスクマンやレザノフなどを使節として日本に送り、通商を求めた。しかし、徳川幕府はこれをかたくなに拒否。ロシアは、日本に通商を認めさせるには、軍事的な圧力が必要と考えるようになった。その後、ロシアの軍艦が樺太や択捉を襲撃する事件が相次ぐようになった。