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 徳川幕府の鎖国は、消極的な外交政策であったと言える。海を通じた異国・異民族との接触を制限することで、幕府の統治を脅かしかねない脅威を取り除こうとした。

 だが、これは排外主義とは本質的に異なっていた。オランダ・清を「通商国」(国交を結ばないものの貿易は承認)とした。朝鮮・琉球を「通信国」(国交を結び、貿易も行う)とし、朝鮮からの通信使、琉球からの慶賀使・謝恩使を迎えた。アイヌとも交易を行った。

 長崎の出島は当初、ポルトガル人を管理する目的で作ったものだった。鎖国にともない、平戸にあったオランダ東インド会社の商館を出島に移した。徳川幕府はこうして、長崎奉行の厳しい監督の下でオランダとの貿易を行い、これが生み出す利益の独占を図った。オランダ船は年に1回のペースで来航した。幕府は長崎を窓口としてヨーロッパの書物を輸入し、オランダ商館長が提出するオランダ風説書によって海外の事情を知った。他方、アムステルダムでは日本の磁器が人気を集めたという。

 幕府は秀吉の朝鮮出兵で途絶えた明との国交を回復させようと努力したが、実現しなかった。だが、明の民間船の往来は途絶えなかった。幕府は中国船との民間貿易の窓口を長崎に限定し、長崎の町では中国人と日本人が雑居するようになった。

 清が明を滅ぼした後、幕府は清との国交樹立を積極的に求めなかったが、長崎には清船が現れるようになった。清は海外貿易を禁止しなかったので、幕府は貿易統制を強化し、長崎に唐人屋敷を建て、清国人の居住を限定した。

 徳川幕府は朝鮮との講和を実現し、1609年に己酉条約を結んだ。これによって釜山に倭館が設置され、対馬藩主である宗氏が対朝鮮貿易を独占した。耕地に恵まれない対馬では、貿易の利潤が封建的主従関係を支えた。朝鮮からの使節は、当初、秀吉の朝鮮出兵で日本に連行された捕虜の返還を目的とした。その後、1636年以降清が朝鮮を攻めるようになると、「援明抗清」を貫く朝鮮は、南方の日本との友好関係の構築を重視するようになった。

 琉球王国は、1609年以降薩摩藩の支配を受けるようになった。薩摩藩は琉球にも検地と刀狩りを実施し、尚氏を王位に就かせた。徳川幕府は、琉球から江戸に来る使節にはみな中国風の服装、中国風の音楽を演奏させた。これによって自らの支配が異国にも及んでいるように江戸市民に対して見せようとしたのだろう。琉球は、1663年から清の冊封も受ける二重の外交関係を持つようになり、北京にも朝貢の使節を派遣した。

 蝦夷地(北海道)では、蠣崎(かきざき)氏が松前を本拠地として道南地域の支配者となった。徳川幕府が蠣崎氏にアイヌとの貿易独占権を与えると、蠣崎氏は家康の旧姓の「松平」と前田利家の「前」をとって松前氏と改名し、アイヌとの交易権を家臣に与えることで主従関係を維持した。

 アイヌは河川流域に集落を形成し、漁猟中心の生活をしていた。その一方で、千島や樺太、中国の黒竜江流域、さらには明・清とも交易を行っていた。アイヌは1669年、松前藩の不正な交易への不満から一斉蜂起したが(シャクシャインの蜂起)、幕府は津軽藩を援軍として送り、松前藩を助けた。以後、アイヌは松前藩に服従することになった。