さて、この命題についてプリム教授とバトラー教授は、「そもそも企業リソースに価値があるかどうかは、リソース部分だけでは決まらない」という批判を展開しました。これはどういう意味でしょうか。

 以下の仮想の例を考えましょう。ある日本の家電メーカーX社では、高い開発能力をもった技術者たち(=リソース)がいて、彼らが高機能製品を作っているとします。

 もしX社にとってこの技術者に「価値がある」とすると、それは技術者が生み出した高機能製品が売れているからのはずです。消費者が高機能製品に価値を見いだしているからこそ、技術者も価値があるわけです。

 ここで、X社がインドや中国のような新興国市場に進出したとしましょう。そしてこれらの国の消費者は、日本人ほどには高機能製品に興味がなく、一般の普及品で十分という人が大多数だとします。すると、X社はもはや製品機能では消費者に訴求できず、この市場で勝つためには、むしろ普及品をデザイン・広告などによるイメージで差別化して売っていく、という戦略をとるかもしれません。

 もしそうなれば、X社にとって「より価値のあるリソース」は、海外市場に精通して的確なマーケティング戦略を打てる人材や、現地広告会社とパイプのある人材となるはずです。結果として、X社の技術者の価値は相対的に下がることになります。

 言われてみれば当たり前なのですが、このように企業の「リソースに価値があるかないか」は、リソースそのものだけで決まるのではなく、製品・サービス市場の状況や、そこでの企業の戦略に左右されるのです。

 ところが上の命題にあるように、バーニー教授の1991年論文はリソースに議論を限定して、製品・サービス側の話はしていません。プリム教授とバトラー教授はこの点をもって、「RBVは経営理論として不完全である」と批判したのです。

 そしてバーニー教授はこの批判に反論するどころか、なんとあっさりこれを認めたのです。2001年のAMR誌に掲載されたバーニー教授の反論論文の中で、彼は「自分が以前に発表した論文ではRBVに製品・サービス市場の側面を含んでいた。しかし1991年論文ではリソースに絞った厳密な議論をしたかったので、製品・サービスはあえて『理論の範囲の外』にした」というのです。

「部分」を重視する近代経営学

 実はバーニー教授に限らず、経営学ではこのように企業経営の一側面に焦点を当てて分析することが多いのです。

 なぜでしょうか。それは、現在の経営学が「社会『科学』であること」を重視しているからだろう、と私は考えています。

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