本連載では、米ビジネススクールで助教授を務める筆者が、海外の経営学の最新事情を紹介していきます。
さて、私は2012年『世界の経営学者はいま何を考えているのか』(英治出版)という本を刊行したのですが、そこで好評だったのが、リアル・オプションという考えを事業計画に応用することを紹介した章でした。
リアル・オプションの事業計画とは、「事業環境の不確実性が高いときには、慎重に計画をたててから巨額の投資をするよりも、まずは早く部分的に投資をして、その後で必要なら段階的に追加投資した方がよい」という考え方です。この方が、(1)事業環境が悪化した時のリスクを減らしながら、(2)他方で上ぶれ(=事業環境の好転)のチャンスを逃さないのです。
特に重要なのは(2)の点です。 不確実性のある事業環境では、人はそれを「リスク」と見なしがちです。例えば「今後の成長率は20%かもしれないが逆に3%だけの可能性もある」というような不確実性の高い市場では、3%の方に目が行きがちなものです。
しかし「不確実性が高い」ということは、上ぶれのチャンスが大きいということでもあります。もし段階投資ができるなら、万が一下ぶれた際のコストをあらかじめ減らしておける一方で、上ぶれのチャンスをつかむ可能性も残せます。このようにリアル・オプションの考えは、段階投資によって「投資オプション」を作り出すことで、不確実性が高いということはむしろチャンスも大きい(=オプション価値が高い)、ということを気づかせてくれるのです。(より詳しくは、拙著をご覧下さい。)
しかしながら、実はこの「事業計画への応用」は、世界の経営学で議論されている数多いリアル・オプション理論の1つでしかありません。そこで今回は、拙著では紹介できなかった応用例として、現ユタ大学の巨匠、ジェイ・バーニー教授が提示した、たいへん興味深い、そして日本にも示唆に富む研究を紹介しましょう。
バーニー教授のオプション理論
経営学を少しかじられた方なら、バーニー教授の名前はご存知かもしれません。拙著でも紹介している「リソース・ベースト・ビュー」という理論フレームワークを確立し、米ハーバード大学のマイケル・ポーター教授と並んで、経営戦略論の分野ではもっとも有名な学者の1人です。
そのバーニーが2007年に、米テキサス大学ダラス校のスーヒョン・リーおよびマイク・ペンと共同で、経営理論のトップ学術誌「アカデミー・オブ・マネジメント・レビュー」誌に、リアル・オプションの論文を発表しました。この論文でバーニーたちは、リアル・オプションの考えを応用して、「『失敗事業のたたみやすさ』の違いが、世界各国の起業の活性化の違いに影響しているのではないか」と主張したのです。
言うまでもなく、起業は不確実性の高いものです。新しくできた会社の多くは数年内に消えてしまいます。特に将来的に上場を目指すような分野(今ならIT、バイオ産業など)では、技術革新のスピードや市場の変化も早く、結果、上場までたどりつける会社はごくわずかです。起業家の多くはそのような不確実性を知りつつも、あえてリスクをとられている方が多いはずです。
しかし、もしなんらかの理由で「失敗しても事業をきれいにたためる」なら、すなわち「会社を潰す際のコストが比較的小さくて済む」ならどうでしょうか。
例えば、仮に会社が倒産しても経営者が巨額の負債を負わないですんだり、あるいは倒産の手続きが簡素ですんだりすれば、 金銭的・時間的・そして精神的なコストが低くてすみます。そうであれば、その起業家はすぐに立ち直って、また次の事業を起こせるかもしれません。
たたみやすさが起業を促す
そして繰り返しになりますが、不確実性が高いということは、 成功したときのリターンが大きいということでもあります。例えば仮にその事業が上場までたどりつければ、そこから得られる収益ははかりしれないものがあります。
「もし会社が潰れても、そのときはきれいに事業をたためる」のであれば、その分だけ「失敗したときのコストは小さく」 、他方で「成功した時のリターンは大きい」のですから、より積極的に起業を始める人が増えることが期待できます。まさにリアル・オプションの考え方です。
では、どうすれば会社を「たたみやすく」できるのでしょうか。例えば2010年に出版されて話題になった磯崎哲也氏の『起業のファイナンス』(日本実業社)では、起業をする人は、事業をたたみやすくするための資本政策や契約についてあらかじめ考えておくべき、との主張がされています。
このような実務レベルの視点に加えて、バーニーたちは「事業をたたみやすくするための国の制度」、すなわち各国の「倒産法」の違いに注目したのです。
倒産法が起業に影響する?
「会社のたたみやすさ」を規定する倒産法は、国ごとに多様です。たとえば米国では企業を清算することを目的とした「破産法第7条」に加えて、再建を目標とする「第11条」があります。第11条を適用できれば経営者の負担が軽いですから、その経営者は事業を立て直したり、新しいビジネスに取り組んだりできるかもしれません。しかし、バーニーたちの論文によると、必ずしも世界中のすべての国が「第11条」のような法律を持っているわけではないようです。(日本では会社更生法と民事再生法があるのはご承知の通りです。)
さらに重要なのは、実際の倒産手続きを遂行するスピードや煩雑さが国ごとに異なることです。倒産の手続きが煩雑だったり、時間がかかれば、それだけ「はやく事業をたたんで次のビジネスを起こしたい」起業家たちの時間的・金銭的なコストが増してしまったりします。
バーニーたちは、リアル・オプション理論の視点から、経営者が事業をたたむときのコストが低い倒産法や法手続きを有している国ほど、 起業家はリスクをとりやすくなり、結果としてその国の起業活動が活性化するはずだ、と主張したのです。
さらにバーニーたちは、その後この命題を実証研究し、2011年に『ジャーナル・オブ・ビジネス・ベンチャリング』誌に発表しました。実はこの論文にはもう1人の共著者がいまして、それは現在バブソン・カレッジで助教授をしている山川恭弘氏です。山川氏は米国で活動している数少ない私と同世代の日本人経営学者の1人です。
この論文でバーニー教授と山川氏たちは、データのとれる世界各国の19年間のデータを使って統計分析を行いました。その結果、倒産の手続きスピードが早い国ほど、あるいは手続きコストが低いほど、そして経営者の金銭的な負担が軽いほど、その国の起業が活性化しやすいという結果を得ています。
日本の「事業のたたみやすさ」はどうか
では日本の「事業のたたみやすさ」はどうでしょうか。
日本はよく起業の盛り上がりに欠ける、と言われます。実際、バーニー=山川氏らの論文に掲載されているOECD統計によると、日本の1990年から2008年までの開業率は0.04で、他の主要国(米国=0.10、ドイツ=0.17、シンガポール=0.18)よりも低い値となっています。
他方で、この論文では世界銀行などのデータを使って各国の「事業のたたみやすさ」もいくつかの側面から定量化しています。そしてこの結果をみると、日本の倒産法や手続きは、必ずしもすべての側面で不利ではないようです。例えば、倒産手続きにかかる時間は0.6年で、米国や韓国(どちらも1.5年)よりも短くなっています。倒産の手続きコストも相対的に低くなっています。
このテーマに関する研究はまだ端緒についたばかりですので、まだ結論を急ぐ段階にはありません。例えば、 南カリフォルニア大学のヨンウック・ペクが、『ジャーナル・オブ・エコノミクス・マネジメント・アンド・ストラテジー』誌に今年(2013年)発表した論文では、米国66万人のデータを使った統計分析の結果、2005年に米国の倒産法が改訂された後も、それが起業の活性化には影響しなかったと結論づけています。いずれにせよ、バーニー教授たちの問題提起もあり、このテーマが研究者のあいだで注目を浴びていることは間違いありません。さらなる研究が望まれる分野といえるでしょう。
さて、ここまでの話を踏まえて、私の方から問題提起させてください。私は日本の起業社会を考えるときに、これまで経営学で分析されてきた「事業のたたみやすさ」の議論では不十分かもしれない、と考えています。実際、先の論文によると、日本の倒産法や行政手続きは必ずしも多くの項目で他国と比べて不利とはいえないようです。では追加で何を考えるべきかというと、もう一つのたたみやすさ、すなわち「キャリアのたたみやすさ」なのではないでしょうか。
キャリアのたたみやすさ
皆さんもご存知のように、米国ではスタンフォード大学やハーバード大学などの有名大学でMBAなどの学位をとったいわゆるエリート層が盛んに起業をして、同国の経済を牽引しています。彼らはなぜ盛んに起業するのでしょうか。もちろん「彼らは優秀だから高度なビジネスアイディアを思いつく」とか、そういうこともあるのかもしれません。
しかし、それに加えて、彼らは「仮に事業が失敗しても次の転職に困らないから、リスクがとれる」という側面も大きいのではないでしょうか。
起業に失敗したときには、もう一度新しいビジネスを起こすのも選択肢ですが、他方で既存企業に転職する、という選択肢もあるはずです。すなわち「起業家としてのキャリアを一旦たたむ」わけです。
米国が転職の盛んな社会であることには皆さんも異論はないと思います。さらにいえば、米国では起業経験そのものを既存企業の人事が高く評価してくれることもあります。このような社会では、仮に自分が起業した会社を潰してしまっても、既存の企業に転職するという選択肢が豊富にあります。とくに名門校でMBAをとられたような人たちには、その経歴に加えて、卒業生ネットワークなどもありますから、転職オプションが充実しています。
すなわち、米国では法制度的に「事業がたたみやすい」だけでなく、起業家が「キャリアをたたみやすい」社会であるといえます。リアル・オプション的にいえば、キャリアという側面からも、不確実性に対してオプション価値が高いのです。「起業に失敗しても食い扶持に困ることはない」という背景があるからこそ、彼らは大胆にリスクをとって起業できるのではないでしょうか。
日本人の「キャリアのたたみやすさ」はどうか
ひるがえって日本はどうでしょうか。例えば私は日本で会社勤めをしていた十数年前、大手企業にいた同世代の友人や少し年上の方々が思い切って会社を辞めて起業するのを何度か見てきました。
その中にはそのまま成功されている方もいますが、他方で残念ながらうまくいかなかった方もいます。そしてさらに残念なのは、そういった方々の多くは自分が前にいた業界に戻りたがるのですが、なかなか受け入れ先が見つからなかったことです。
いま、日本の雇用の流動化を含めて、日本人のこれからの仕事のあり方が議論されているようです。私は労働経済学者ではないので立ち入って議論する力はありませんが、私見としては、労働市場が流動化されて転職がもっと自由になり、さらに起業にチャレンジした経験を人事担当者が評価できるような社会になれば、「キャリアのたたみやすさオプション」が充実し、それがさらに多くの方々を起業という選択に促すのではないか、と考えています。
そして実はそういった土壌は、日本でも少しずつできつつあるのかもしれません。例えば前述の『起業のファイナンス』の中で磯崎氏は、たとえ事業に失敗しても起業を経験した人たちが培ったセンスは、「形式にこだわらない企業では引く手あまた(22ページ)」だと述べています。私自身も日本の起業関係の方々と交流する中で、同じようなことを感じています。ぜひこの流れがさらに進んで、「起業をすることのオプション価値」がもっと高まってほしいものだ、と私は考えています。
いかがでしょうか。起業を活性化するための「たたみやすさの」の議論は、これまでも言われて来たことかもしれませんが、経営学ではこれをリアル・オプションの視点からとらえることができるのです。政策的にも重要なことかもしれませんし、さらなる研究の充実が望まれるところです。
謝辞:今回のコラム執筆にあたっては、立命館大学准教授の琴坂将広氏に草稿を読んでいただき、貴重なコメントを頂戴しました。ここに厚く感謝します。ただし文中内にいかなる間違い等があっても全て筆者の責任によるものです。
(この記事は日経ビジネスオンラインに、2013年5月21日に掲載したものを再編集して転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。)
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