インターネットの普及などを背景に年々深刻化する出版不況。そんな中でも相変わらず社会に強い影響力を持ち続けているのが「漫画」だ。国境を越えて支持される『進撃の巨人』、映画化された『GANTZ』、発表から20年の時を経て映像化された『寄生獣』、2016年公開の『アイアムアヒーロー』…。この数年の注目作品を挙げれば枚挙に暇がない。
ただ、そうした昨今の人気作品を改めて列挙すると、特に子を持つ親の立場からは、「非常に気になる共通点」があることに気付く人も多いはず。ずばり、作品内に過激な描写が散見されることだ。とりわけ最近はCGなど漫画制作技術の発達で、悲惨なシーンを以前と比較にならないぐらい克明に描くことが可能になってきた。
「感動」や「仲間との絆」、「主人公の成長」などをテーマにした“普通の作品”も多数ある中で、あえて“グロい漫画”を好む人は、やはり心に闇を抱えているのか。サイコ・セラピストで日本催眠心理研究所の所長を務める米倉一哉氏に、過激な漫画や映画、小説を好んで読む人の心理について聞いた。
(聞き手は鈴木 信行)
グロテスクな描写が含まれる漫画や映像作品自体は以前から存在していましたが、ファンは一部のマニアが中心で、今のように一般的な支持を集めることはなかった気がするんです。でも最近は、顔がぐちゃぐちゃになったりする映画の宣伝が平気でお茶の間に流れていて、原作本もよく売れる。その背景に「日本社会の病巣」みたいなものを感じるんですが、気のせいでしょうか。
グロい漫画がヒットする背景に「潔癖すぎる社会」
米倉 一哉(よねくら・かずや)
心理臨床家。心理カウンセラー。1962年、茨城県生まれ。中央大学在学中から、日本医療心理学院にて心身医学・精神医学や心理療法を学ぶ。同大学を卒業後、1984年より日本催眠医学研究所(1954年に医学博士の森定一氏によって設立された医療催眠の草分け的存在)に入所し、臨床経験を積む。同研究所所長・森定一氏の死去後、そのあとを継ぎ、1999年に日本催眠心理研究所(代々木心理オフィス)を設立し現在に至る。先代より受け継いだ心の通った臨床とともに、今日の心理療法のあり方を模索している。元日本医療心理学院講師。現在、日本催眠臨床研究会理事。日本催眠応用医学会副会長。テレビ番組「たけしの万物創世記」「NHK首都圏ニュース」「TBS報道特番」等に出演。
米倉:いや、大変意味がある事だと思います。結論から言えば、今の社会状況が、多くの人がそうした作品に関心を持つ環境を作り出している、という事ではないでしょうか。まず、グロテスクな漫画や映画が流行する原因を心理・精神分析的な観点から分析すると、次のように言えるように思います。今は、殴り合いや取っ組み合いの喧嘩をする事なんてほとんどない、血を流したり、他人や自分の痛みを知る機会が子供の頃から極めて少ない社会ですよね。「痛み」だけでなく、大人になる過程で、砂場で泥まみれになって遊んだり、ミミズを捕まえたり、犬の糞をうっかり踏んだりする場面もめっきり減りました。
社会全体から“グロい事”が消えた、と。
米倉:人間は、どんな事でも「自ら体験して、感じたい、味わいたい」と潜在的に願う生き物です。これを“身体性”と呼びますが、生々しい実体験がなければ、そうした感情を満足させることができません。一昔前であれば、多くの子供が、密かに心に抱える「グロテスクな事や危険な事への関心・興味」や「周囲への攻撃性」を、思春期に友達と少し羽目を外したり、親に反抗したりして、少しずつ昇華したり、発散させて大人になりました。でも今は、反抗期自体がない子もいる。そんな「体験したくてもできなかったグロテスクな世界」が漫画に描かれてあれば、そこに興味を引かれるのは、ある意味当然であり、健全な心理なんです。
なるほど。ただ、どうなんでしょう、それにしても限度があると思うんです。巨人や宇宙人、ZQN(おそらく謎のウィルスに感染しゾンビ化した人々)、吸血鬼に、登場人物が捕食されたり、手足や内臓を切り刻まれたりするシーンを見て、目を背けないどころか全く気にせず、「来週(次巻)はどんなストーリーになるのかな」とワクワクしてしまうのは、さすがに自分でも心に闇を抱えている気がしてしょうがないんですが(笑)。
米倉:大丈夫です。人間は、何事も経験すると耐性が付いていく生き物でもあります。最初は「強い」「ひどい」「残酷だ」と感じていた刺激でも、何度も体験しているうちに物足りなくなるのは自然な現象です。
ならば「最近の『アイアムアヒーロー』は連載開始当初に比べグロさが足りない」などと不満に思ったり、「グロい漫画」や「後味の悪い映画」ばかりネットで検索したりする自分がいても、決して心に異常があるわけではない、と。
米倉:異常ではありません。むしろ、そうした感情や関心を無理矢理抑え込む方が危険です。例えば、子供がその種の漫画を読んでいる事実を知り、全面的に禁止してしまう親御さんがいます。そうすると「グロテスクな事や危険な事への関心・興味」が子供の心にずっといけないものとして溜めこまれて、それこそある時、実生活の中で爆発しかねません。本当はこういう自分でありたいのに、親や世間の手前、別の自分にならざるを得ない――。そんなアンビバレンスな感情を持ち続けると、人はやがて「自己の不一致」と呼ばれる状態に陥ります。大きな問題を起こしたり、リストカットをしたり、過食・拒食症になる子の多くはこの状態に陥っています。
グロい漫画は子供から取り上げず一緒に読む
そうならないためには、親は漫画を取り上げるのでなく、一緒に読めばいいんです。その上で、子供がなぜそのような漫画を読みたがるのか「共感」し、「理解」しようと努力する。そうすれば、自分の子育ての問題点が見つかるかもしれないし、子供も時間が経てば、別の事に関心を持つようにもなると思います。逆に、無理矢理やめさせようとすると、エスカレートしかねません。
どうしてもその種の漫画やゲームをやめさせたい場合は、こんな方法があります。「子供が、攻撃的でグロテスクなゲームばかりしていて心配だ」とウチに相談に見えられた親御さんがいました。私がその子にどう対処したかと言えば、枕投げをしたんです。枕ですから怪我をする危険はありませんが、本気で投げ合うと大人の私でも結構痛い。しかし何週も枕投げをした結果、その子はやがて過激なゲームへの興味を失いました。
攻撃的でグロテスクなゲームに引かれるのは、その子が心の中に攻撃性や痛みへの欠乏感を溜めている証拠である、と。枕投げという疑似的な攻撃の応酬でそうした欠乏感を発散させたから、過激なゲームで埋め合わせる必要がなくなった。そういう理屈ですか。
米倉:そうです。ただ多くの場合は、そこまでヒステリックに全面禁止にする必要はないと思いますよ。
子供に限らず、多くの人が「グロい漫画」を読むことで、心に抱えている攻撃性を実生活で爆発させる前に上手に昇華させているのだとすれば…。
米倉:国民全体でグロテスクな漫画や映画を観賞するのはむしろ、社会の平和にとって「いいこと」だと言えるかもしれませんね。ただ、これはあくまで、心に溜めこんでいる感情が、「グロテスクな漫画を読む」という他人に迷惑を掛けない行為に表れているケースの話です。中には、溜めこんだ攻撃性やトラウマが、犯罪行為や迷惑行為に発展してしまう人もいます。そうした場合は、当然、即刻対応が必要です。
子供の頃から押さえ込んできた感情が成人後、犯罪の原因になる場合もある、と。
米倉:例えば、こんなケースがありました。「自分ではやりたくないのに、どうしても痴漢をやめられない」と相談に見えられた方がいました。グロテスクな漫画を読むことにせよ、痴漢をすることにせよ、人間が何らかの行動、特に社会的規範に照らし合わせてマイナスの行動を起こす時は、そうさせている原因が必ず無意識の世界にあります。そのそうさせているモノを、専門用語で「力動」と呼びます。かつてフロイトが「リビドー」と呼んだものに近いものです。
多くの人が「グロい漫画」を読む力動は、大抵の場合、幼少期からのグロい経験の欠如と渇望にある、という話でした。
半年間、我が子の手の平を灰皿代わりにした母親
米倉:そうです。では、この相談者の方が、自分でもやりたくないのに痴漢をしてしまう力動は何なのか。半年間における治療の結果、根本的な原因は幼少期の母親による虐待にあることが分かりました。
その方が小学校に上がる前の話です。母親は夜の仕事をしていて毎日真夜中に帰ってきていた。いつもイライラしていて、帰ってくると必ずタバコを一服するのが習慣でした。ある日、母親は帰宅したのですが、灰皿がない。だんだんと苛立つ母親。その方も、母親の怒りを鎮めるため必死で灰皿を探したが、見つからない。その方はどうしたか。自分の手を母親に差し出した。母親はニヤリと笑って満足げにその方の手の平でタバコをもみ消したそうです。虐待は半年以上続き、数十年を経た今もその方の手の平には酷いケロイドがあります。
なんか、漫画より、先生の話の方がグロくなってきました。でも、その虐待経験と痴漢に何の関係が…。
米倉:幼少期の虐待以来、その方は無意識のうちに「母親への復讐」「女性への攻撃」を心に秘めて大人になったんです。そして彼が痴漢をする最大の理由は、自分の攻撃によって嫌がる、女性の苦痛の表情を見たかったからなんです。本人は自覚していませんでしたが。
ちなみに、その方は今?
米倉:今の心のメカニズムを理解し、その実感を深めることで痴漢行為はかなり減りました。でも完全にはなくならない。そこで最後は「そんなに長い間、虐待されてきたんだからしょうがない。警察に捕まったら私が話をしに行きます」と言いました。
先ほど出てきた「共感と理解」ですね。
米倉:以来、痴漢行為は劇的になくなりました。彼にとっての、生まれて初めての“存在の後ろ盾”が出来たからなんでしょうね。
なるほど。人間の行動を決める力動を見極めることの重要性が分かった気がします。ここでもう一度「グロい漫画」に話を戻したいと思うのですが、過激な描写でなく過激な状況にゾクゾクする人も多いと思うんです。塀の中でしか暮らせないのに塀が壊されるとか、少しでも噛まれると終わりとか、ぬらりひょんが強過ぎて1巻かけても倒せないとか、島から絶対出られないとか。そうした主人公の絶望的な状況に心惹かれてしまうのは、どういう心理状態なのでしょう。
なぜ「ぬらりひょん戦」が最も心に残るのか
米倉:ここでも自己の不一致が関係しています。日本は他の国よりも自己の不一致に陥っている人が多いんです。なぜかというと、本音と建前が、個人主義の国の人達よりかなり離れているからです。
確かに、世間体を気にしますよね。
米倉:例えば、名家に生まれ何一つ不自由のない暮らしを送っていると周囲から思われている人がいます。でも、本人は「自分の人生はしがらみにがんじがらめで非常に不幸で絶望的なものである」と思っていたりすることは結構普通にある。それでも、その人は周囲に対しては「幸せな自分」を演じなければならない。
まさに自己の不一致ですね。
米倉:こうした人は往々にして主人公が絶望的な状況に陥る小説や映画を好む傾向があります。不幸な状況にある主人公を、自分と重ね合わせ共感できるからです。
なるほど。恐ろしく絶望的なシチュエーションの漫画や映画が流行るのは、「格差社会の中、自分よりつらい状況にある主人公を見てほっとしたい心理」あるいは「自分のつらさを誤魔化したい心理」などが背景にあるのではないかと思っていました。
米倉:そういう人もいるかもしれませんが、主流ではないと思います。
なるほど。よく分かりました。では最後にグロ関連でもう1つだけ質問させてください。先日、編集会議中の雑談でとあるグロい話をしたところ、男性陣より女性陣が著しく関心を示したんです。
米倉:どんな話でしょう。
深海魚のアンコウの話なんですが、全部の種類がそうかは知りませんが、一部の種類のアンコウはカップルになるとオスがメスの背中にくっついて一生離れないんだそうです。それでひたすら密着しているうちに、やがてオスはメスの臓器として同化し吸収されてしまう。腹部からドロドロと、だんだん溶け込んでいくんでしょうね。そうやって吸収しちゃうとメスはまた新たなオスを背中に張り付けて吸収する。何匹も何匹も。だから、大型のアンコウはメスばかりで、大きなオスは滅多に見つからない、と。人間に置き換えて想像するとなかなかのグロい話です。アンコウ鍋店の女将の受け売りですけど。
米倉:なるほど。
最近の十八番「アンコウの話」が女性に受ける理由
この話をすると、女性陣は「気持ち悪い!」「グロ過ぎ!」などと言いながら興味津々で、「どの辺までオスに意識があるのかな!?」「一体化されて溶けていくってどういう心境なのかな!?」などと盛り上がっていました。先生、彼女達は大丈夫でしょうか。
米倉:それは全く大丈夫です。精神分析するとこういうことになります。人間は誰しも母性と父性を持ち合わせています。一般的には、女性は母性を多く持っていて、男性は父性を多く持っていると思われていますが、そうとは限りません。男性でも母性的な方は沢山いますし、女性でも父性的な方も沢山います。母性というのは包み含む力、包含のエネルギーです。相手を包み込み、守ろう、一体になろうとする本能ですね。一方、父性と言うのは切断、断ち切る力・エネルギーです。オスを包み込んで一体化してしまうというアンコウの話は、まさに母性本能をくすぐる話です。そんな話に強く関心を持つということは、その方々はきっと母性にあふれた、優秀な記者さんなのでしょう。
そうなんですか。なら、よかったです。
(この記事は日経ビジネスオンラインに、2014年12月11日に掲載したものを再編集して転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。)
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