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 当時のインド、イラク、イランはすべて反英国家で、独立運動の最中にあった。中東のイギリス軍を追い出し、アジアの反英国家を見方につければ、日本とドイツは東西からユーラシア大陸をまたがって連結できた。

 その結果、枢軸国が北極を挟んで北米大陸と対峙する形になる。その体制に持ち込まれたら、連合国はノルマンディー上陸作戦のようなヨーロッパ侵攻作戦を採ることがほとんど不可能だったという分析を後の戦史家は下している。

明暗を分けた「兵站計画」の有無

 当時の日本はもちろん、ドイツにも北米大陸を占領する力はなかった。従って、第2次世界大戦で枢軸国が連合国に勝つ可能性はなかった。枢軸国の狙いは当初から「短期決戦・早期講和」だった。

 日本とドイツの共同作戦が実現していたなら、そのチャンスはあったのかもしれない。しかし、日本はそうした戦略思想を全く欠いていた。ロジスティクス軽視は致命的だった。

 太平洋戦争に突入する前夜の日本では、連合国のアメリカ、イギリス、オランダを相手とした戦争計画を、陸軍と海軍がそれぞれに立案し、毎年、天皇に上奏していた。

 しかし、ロジスティクス計画についてはペーパー1枚が割かれていただけで、その中身も、「全国民が一丸となって節約に励み、物資動員に全力を注ぎます」といった、スローガンに近いのものだった。

 一方のアメリカは1941年6月に、フランクリン・ルーズベルト大統領が当時の陸軍幹部に対して、枢軸国と戦争になった場合の詳細なロジスティクス計画を提出するように指示を出している。

 その指令を受けて作成された兵站計画が、後に「ビクトリープラン」と呼ばれる第2次世界大戦の壮大な物資動員計画へと発展していく。

 その計画は枢軸国がどのような戦略を採るかという分析からスタートする。そして連合国が枢軸国に勝つには、どれだけの兵員、武器・弾薬、物資を、どこに投入する必要があるのかを弾き出す。

 さらに必要な物資はアメリカ内で調達できるのか。生産にはどれだけの期間がかかるのか。何隻の船が輸送に必要なのか。一つひとつ見積もって計画を詰めている。

 その結果、連合国が枢軸国に勝つのは可能だという結論を下す。ただし、必要な物資が揃うのは1943年の半ばになる。そのため、連合国が攻勢をかけるのはそれ以降だという答申を出している。

 それに対して、日本ではビクトリープランに相当するロジスティクス計画が、結局、最後まで策定されなかったようだ。

中央集権型から自律分散型へ

 この第2次世界大戦の戦いのあり方は、今日のグローバル市場における企業間競争と重なるところが多い。

 今日の企業は、最終的に商品を販売している市場の中での競争だけでなく、その商品を生産している工場、そして部品や材料の調達先まで、グローバルに広がったサプライチェーン全体での競争を強いられている。

 何が競争の勝敗を左右しているのか、従来よりも広い視野から分析し、自社のサプライチェーンを強化すると同時に、可能であれば競争相手の弱点を突く。

 キーパーツや稀少な資源を先に抑えてしまうことで、敵のサプライチェーンに打撃を加え、相対的な優位に立つ。そうしたビジネス上の“戦略爆撃”が実際に頻繁に行われている。

 一方、今日の軍事戦争は、冷戦時代を経て「テロとの戦い」の様相を呈している。そこでは従来の国家間戦争におけるロジスティクスの手法が通用しない。