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 それは、民主主義を求める声を国家権力が飲み込もうとしている姿だった。もはや、法の名の下にも、世論の支持という観点からも「正義」を失った彼らが、歴史に痕跡を残しつつ消えていく姿だった。

 「我要真普選!」

 リーダーと社会正義を失ったデモ隊が最後にふり絞る断末魔のような声は、強い風に煽られ、夜空に吸い込まれていった。

SARSと通貨危機という誤算

 香港デモとは何だったのか。また息を吹き返す可能性もなくはなく、終わったものとして振り返るにはやや時機が早いが、少なくとも現時点の材料で振り返っておこう。

 もちろんそれは、民主主義を手にしたいと願う香港市民の政治運動だった。あるいは、英国が香港を返還した折に約束された「一国二制度」が失われつつあることに危機感を覚えた香港人たちの抵抗だった。

 だが、「政治」の闘争であると同時に、すぐれて「経済」の闘争でもあったと思う。デモ期間中、私は何度もデモ隊を訪れて話を聞いた。なぜこの場にいるのか。何を勝ち取ろうとして闘争するのか。彼らはもちろん「民主主義」や「普通選挙」を答えに挙げる。だが重ねて「なぜ民主主義が必要なのか」「なぜ普通選挙を実現したいのか」と問うと、その答えはいつも経済問題に帰する。

 第1に、家賃が高騰して生活が困窮している。第2に、就職先がない。そして第3に、一部企業や資産家だけが経済成長を謳歌し、貧富の差が拡大している。

 これらの不満は、一見、民主主義の有無とは関係がない。こうした経済問題が、なぜ政治闘争を引き起こしているのか。根底にあるのは「対中意識」の変化だ。

 1997年7月に英国から返還された直後、90年代後半から2000年代前半の香港経済は、アジア通貨危機(同年同月にタイから始まり、翌年にはアジア全域に及んだ)の余波とSARS(重症急性呼吸器症候群)の流行(2003年に流行、香港では299人が死亡)によって深甚な影響を受けた。1998年にGDP(域内総生産)は-5.5%とマイナス成長にまで落ち込んでいる。

 この香港の苦境を救ったのが、2003年に中港間で締結され、2004年に施行された事実上のFTA(自由貿易協定)である「経済緊密化協定(CEPA)」だ。旺盛に成長する中国経済との接続の垣根を下げることで、香港もその恩恵に預かった。しかもCEPAは、香港製品の中国本土輸出に関税を課さない、香港企業の中国本土市場への参入障壁を下げるなど、香港に有利、中国本土に不利な「不平等協定」になっている。加えて同年、中国本土人の香港への個人旅行も解禁されている。本土観光客という「購買力」を香港経済は手にすることができた。つまりこれらは、中国政府による香港経済救済策だった。

 CEPA締結後、2004年に香港のGDPは8.6%という高成長を遂げ、以降もしばらくその効果が持続した。「カンフル剤」は劇的に効いたと言っていい。