吹雪の山から下山せよ

 なんだか、冬山で遭難しかかっている登山家が見えてきました。吹雪に見舞われ、食料も無く、上からは雪崩も起こりそう。しかし無線からは「上れないのは気持ちが弱いからだ、お前の力を信じているぞ、名誉に賭けて、頂上に日の丸を揚げてこい」という、悪意のない励ましの言葉が聞こえてくる。もう限界だけど、その信頼をとても裏切れない。

 どんなに過酷でも登山の途中では「その山は、言葉通り本当に命を賭けて登る価値があるのか?」と考えることは相当難しいでしょうね。自分の体験に照らしてもそう思えます。

計見 君の場合はどんな感じだった?

 眠れない日が続いて、「誰にも分かってもらうことはできないし、自分の能力不足のせいだから、助けてももらえない。だったら潔く体の限界と心の限界までやりぬいて、あてつけがましく散ろう」と何度も考えました。私の場合は、家族と、そして最後は「いや自分は自分が一番大事だ。俺は自分が可愛い、壊れたくない」という気持ちが、アンカーになったように思います。

計見 自分で山を下りたんですね。

 そうです。その後数年間は「下山した」、その屈辱と自信喪失に苦しみましたけど。

計見 Y君、私は老人になったせいか、若いときより見えてくるものがあるように思えるんです。

 はい。

計見 その一つが、「人は普通に生きているつもりで、気がついてみれば狂気のただ中に置かれるのだな」という感慨です。「あなたは普通のつもりだろうが、実は」などと脅迫しているのではないよ。いつも通りの日々を送っているつもりが、気がついてみれば隔離室の中で私と対面していた、というのが、患者さんの実感であろうと私には見えて来ました。

 これは、ひょっとすると死についても言えるのかなとも、近頃思っている。いつものように生きていて、気がついたら(つくわけないが)死んでたよというのが、案外理想的な死かもしれないと。

 自分のことならこれでもいいが、一生懸命生きている人があるとき知らずに危険域に入ってしまい死に向かって歩んでいるとしたら、それを知ったものには止める義務と責任があると思う。だから、精神科救急などという酔狂をやって来ました。ここで言うのもなんだが、内心には「止められるのは一回だけかもしれないよ」という囁きが聞こえていたかもしれない。

もしも精神科医が自殺防止できるとしたら

 我々が精神的に追いつめられてしまうのも、患者が精神科医に行けないのも、行くことで自分をさらに追いつめてしまうのも、総じて言えば「精神による肉体の軽視」、つまり体の不調を心が無視しようとする傾向と、その傾向を作り出しがちな、私たちの文化に流れる何事かに帰することができそうですね。

 『戦争する脳』にも書かれていましたが、具体的な対策としては、まず、寝られなくなったら用心しろ、と。厚生労働省のキャンペーンと結論はいっしょですが「それを無視しようとするのが、対象者の特徴だ」ということがよく分かりました。

計見 危険のある人が精神科医を受診することには、非常に大きな抵抗があることくらい、もちろん厚労省だって気がついているでしょう。こっちだって、ぎりぎりになってでも来てくれれば何とかするが、そのぎりぎりの線に至っているかどうかは、自分では分からない。しかも、分かりにくくさせる伝統が我々の国にはあるということです。

 だけど、それでもあまりに辛すぎると思ったら、眠れなくなったら、その山は下りるべきです。最後に自分を大事にしてやれるのは、自分しかありませんから。私は生きて「下山」したおかげで、数年後に次に登りたい山を見つけることができました。登っている間は見えないけれど、下りれば、必ず次の山は見つかると思います。

計見 君みたいに「周りの目より、自分を大事に」してくれる人が増えたら、私ももうすこし閑になるんだが。

 先生、分かりにくい誉め方をしないでくださいよ…。

●希望と復活への「カナリア」●

 こんな状況下で、危機に対して私たちに何ができるか。まず「もしかしてメンタルかなあ、イヤだなあ」と思っている方に、自分がどれほど危ない領域に入りかけているか、自己判定できるような装置があれば、少しは役に立つかもしれない。というわけで、簡単なチェックリストを作ってみました。

 カナリアと名づけたのは、昔、炭坑などの鉱山労働者が切り羽に行くとき、カナリアの籠を持って行ったという話を聞いたことがあるからです。有毒ガスが危険水準にいたると、鳥は小さいので早く落鳥して危険を知らせてくれるからです。

 この表を「生還カナリア」と名づけたいと思います。あらゆる闘病は生還を期しての戦いに参加することです。例えば、癌にかかった人、大多数は癌などと思いも知らず日常を送っていて、ある日闘病生活に突入します。周囲が「頑張れ」と願うのは、生還を果たして貰いたいからに他なりません。

 普通の日常と思って生きている人が、ある日気がついてみれば電車のホームの端に立っていた。というのが、真相に近いのかも知れません。その前に危険を察知できれば、なんとかなるかも知れないという願いから作成した試供品です。もし、同憂の方々がいらっしゃれば、ご意見によって改良できれば幸いです。

 試案は下表です。ブルーからイエローになったら要注意、レッドに変わると危険と思ってください。これはまだ未完成品です。衆知が集められればもっとマシで簡便になものになると思います。ご意見や提案を頂ければありがたい。どうぞよろしくお願いします。(計見 一雄)

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※計見先生の近著はこちらです

精神の哲学・肉体の哲学』(木田 元氏との対談、講談社)
■変更履歴
記事掲載当初、本文中で「準じた」としていましたが、正しくは「殉じた」です。お詫びして訂正します。本文は修正済みです [2010/05/18 11:25]
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