Y それは、そこまで患者さんに仰るんですか。
計見 踏み込むことも、ときにはある。もちろん、決意をいよいよ固められては困る、と思えば言わない。
肉体の軽視(時には蔑視)と精神・精神力の重視という「癖」
Y しかし、このお話はどう理解すればいいんでしょう。患者さんにとって、心の、精神の問題と受け止めることが、受診を避けさせ、回復を遅らせるということは明瞭ですが、そこに配慮して「体のせいだ」とごまかして納得させるテクニックを用いよ、と?
計見 そう思う君も、肉体を軽視、というか蔑視して、精神・精神力を重視する通癖にはまっているんじゃないでしょうか。

日本の多くのまじめなサラリーマンは、自分の精神が弱っているなどということなんて、断固認めたくないに決まっている。精神が病むなんて恥である。そう思わない日本人はまず皆無でしょう。この面接は、そういうメンタリティへのテクニックではない。私自身がこのように信じているし、自分についても他人についても「精神」の実在など信じていないがゆえの、実戦型アプローチのつもりです。
Y (おっと、先生の虎の尾を踏んじまったか?)なるほど、肉体なくして、精神なんてありえない、と。ああ、だったら、精神の病は、まさしく体の不調がもたらしたもの、ということになるわけで。
計見 分かったフリがうまいねえ(笑)。大きな企業のメンタルケアの相談を受けている教授から、最近聞いた話だが「うつなんかに負けない精神をどうやったら作れるのか、先生教えてください」と質問されたと。聞いたのはその企業の職場のメンタルケアを担当する課長さんだったそうです。
私は笑ってしまったし、教授も困ったものだという顔をしていました。しかしこれは、笑う方が悪い。それが世間の常識だから。精神力さえしっかりしていればどんな逆境もで乗り越えられるものだと、ほとんどの人は信じている。「精神が病んだ人、極端に言えば精神が壊れたり荒廃した人になるのが、精神病だ」という理解は精神科医の世界でも今も通用しています。「それだけにはなりたくない」と、思わない方がどうかしている。現にわが職業歴のうちの前半くらいでは、私だってそういう風に思っていましたから。
震災救援での経験「あ、宗教でっか、いりまへんわ」
Y 体の問題、とおっしゃいますが、一方で「うつはこころの風邪です」という言い方もありますよね。
計見 その言い方には続きがあるでしょう。「気軽に受診しましょう」という。このキャッチコピーは大いにヒットして、精神科診療所と抗うつ剤メーカーのマーケットが大いに拡大した。「こころのケア」なる言葉も、主に阪神・淡路大震災での経験やマスメディアでの喧伝で普通名詞化しました。今や学校でなにかあったら「こころのケアチーム」が編成されないと人道にもとる、と言われそうな勢いですね。
Y またそんな言い方を…。先生自身があの大震災の被災地で「こころのケア」に携わったじゃないですか。
計見 私は神戸の被災地でそれなりの仕事をしたという自負のある人間だけど、あれは「こころの」ケアではなかったと思っています。こころのケアをしようにも、避難所で「精神の」と言った途端に「ア、宗教でっか、いりませんわ」と言われてしまったり、避難所の責任者の校長先生に「うちには、そんな精神の弱いものはおりませんわ」と追い返された経験もスタッフから聞いた。
Y まさしく先ほどの私の「精神が病むなんて恥である」思考ですね。
計見 被災者に接近する唯一の道は、避難所の救護所(診療所)に精神科医をチームとして入れてもらうことでした。そこで、現地に部下の精神科医を派遣するとき、こう命じたものです。
「決して精神、精神というなよ。まずは風邪を診てやれ、他科の医者の手伝いをして、点滴をやれ。年寄りの脱水を厳戒せよ」「その避難所で医者として同僚からも被災者からも信頼を得てから、我々のお客さんだと思ったら世話をしなさい、なによりも安眠の確保だよ」「精神的外傷のチェックリストなんか振り回すなよ」と。
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