計見 そういう主張が今回の政府のキャンペーンでも打ち出されていることは知ってます。でも「本当にそうか?」と思ったことはありませんか? 仮にそうだとしても、「受診勧奨キャンペーン」は有効だろうか。50年近く精神科医を生業とし、しかも少なからざる数の自殺既遂者を受け持ち患者から出してきた身としては、考え込まざるを得ない。

 既遂者…。先生のそういう率直すぎる物言いは、人によってはあらぬ誤解を招きそうですが、個人的にはとても信頼しております。では、どうすればと。

計見 異常な自殺者増加に対して、いくばくかでも歯止めをかけることが可能か、可能とすればどんな手段がありうるか。結論が「可能だ、こうすればよい」というものにはならないかも知れないが、一応、話してみるか。

受診させたいなら「精神・メンタル・こころの」という扱いでいいのか

計見 たとえば「精神・メンタル・こころの」病気、という扱いが正しいのか?

 だって、そもそも「精神科」ではないですか、受診する科の名前が。

計見 そうか。では実際の臨床場面で、私がどんな風に初診の患者さんに接するか、手の内をあかしますか。

打ちひしがれ、憔悴した五十がらみの男性が診察室に入って来る。

私:
ここが精神科であることは、ご存じですね?
彼:
ええ、まあ精神科って書いてありますから。
私:
精神科なんかに来るのはお嫌でしたでしょうね。
彼:
(無言で頷く)
私:
からだの病気ならよかったのにと思ってますね?
彼:
エ、エー…まあ。
私:
例えですが「癌のようなものでもその方がまだましだ」と?
彼:
(頷く。多少、涙ぐむ)
私:
からだの病気なら皆に分かって貰えますからね。
彼:
そうなんです(さらに涙ぐむ)。
私:
しかし、あなたの病気はからだの病気なのですよ。
彼:
(きょとんとして)だってここは…
私:
看板は精神科となってますがね、あなたの病気はからだの病気なんです。
彼:
そんな(やや憤然とする)。
私:
私の言うことが信じられないのは分かってます。でも、身体の病気なんです。これからその証拠を列挙しますから、聞いてください。
あなたはこの一カ月くらいの間に体重が減ってますね、10キロも痩せましたか?
彼:
7~8キロでしょうか。一カ月よりはもうちょっと前からかな。
私:
食欲がないですね?食べても味がしないでしょう?
彼:
そうです、砂を噛んでいるような。
私:
それでも食わなきゃと思って食べてるんですよね。
ところで、あなた便秘してますね。
彼:
はい。
私:
初めのうちはウサギの糞みたいな固いコロコロした便で、今では数日間に一度程度の排便ですね。
彼:
そうです。
私:
ここんとこ、眠ってないでしょう?
彼:
はい、昨夜は…
私:
殆ど一睡も出来なかったでしょう…その状態になるまでは、こんな風ではありませんでしたか?
 
――最初の頃は、いつもより朝早く覚めてしまう、4時とか5時に。もう一度寝ようとしても眠れない。そのうちに、例えば夜の11時頃寝たとして、午前2時に覚めてその後眠れない、その後は一時間半くらいで覚めて朝まで輾転反側している、そうして昨夜のように殆ど眠れなくなってしまった。
彼:
その通りです(この辺で彼は「この医者は分かっている」という顔をし始める)。
私:
朝と夕方ではどっちが気分が多少は良いですか?
彼:
夕方から夜は元気になります。朝がね…。
私:
そうすると、こういう事になりますね。前の晩に翌日の仕事の支度、下調べなどをして「明日は出勤するぞ」と思って寝ても、朝になると全然動けないと?
彼:
その通りです。

 なるほど…実は自分も過去に、この患者さん同様の経験をした時期がありました。早寝したのに午前2時くらいに目が覚める、なんてくだりは怖いほど同じです。

計見 この人物は、勤勉で職場では頼りにされ、頼まれればイヤとは決して言わず、しばしば自宅に仕事を持ち込んでも片付ける人で、周囲からはとても親切で温かい人とみられているんです。診察ではそこまでは念を押さないが、「あなたのことは分かっている」ことを強調したければそういうことも告げる。

私:
思ったように身体が動きませんね? ああしようこうしようと思っていてもからだがついて行かない。午前中は考えることにも集中できないでしょう。考えてもまとまらないし「あっちの方が良いかなと思うと、やはりダメだ、という結論になるし、じゃあこっちの方がいいかなと思うとそっちもダメ」になるでしょう。いくら考えても堂々巡りで、今は八方ふさがりだと思ってますね?
頭が重くて、ボーッとしているか、頭痛もする、頭の周囲に輪っかを嵌められて締め付けられていません? 特にこの数日は?
彼:
(その通りであるという顔をする)
私:
今までに私があげたことは、ぜーんぶ身体の不調ですね? 痩せて食えなくて、便秘して、眠れなくて…不眠やそれに伴う日内変動という一日のうちでの体調の乱れは、日夜リズムという周期の異常で、これも脳という臓器の「歩調取り装置」の故障ですから、やはりからだの異常です。
 
それが了解されたら、私の提供する治療を受ける気になって下さい。全てに優先するのは睡眠の確保です。それがご自宅で出来ないようであれば入院を勧めます。

計見 以上が、初診のときのやりとりのあらましです。

 いや、驚いた。当時の自分がこういってもらえたらどんなに助かったか。

計見 この話の意味するところを、手っ取り早く説明します。この段階に至った人は一つのことしか考えられないような心境に至っていて、その一つとは「もうケリをつけたい、終わりにしたい」です。そこに向かってどんどん思考の範囲が狭まって行く。あたかも「トンネルの出口に小さな光が見え、その他は暗闇」のような。本物のトンネルなら進めば光は大きくなってやがて外の野山が広がった光景になりますが、この人のトンネルは後ろに逆行して光がどんどん狭まって「死」しか選択の余地が無くなっている。

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