世界最大の電気街「華強北」は、深圳の象徴的な場所の1つだ。1日に約50万人、ピーク時で80万人が世界中から訪れる巨大な電気街は、常にこの街の歴史の中心にあった。粗悪なコピー品も、騰訊控股(テンセント)のような世界的な大企業もこの電気街から生まれている。
40年余りで人口30万人の漁村から1500万人を超える大都市に成長した深圳は、常に変化に満ちた街だ。人口が1000万人を超えたといわれるのは2000年代の後半。それから10年余りで、横浜市や米ロサンゼルス市といったサイズの都市が新しく誕生するようなペースで成長している。
街の変化はそのまま産業の変化でもあり、それはこの街の産業を象徴する電気街の変化でもある。変化し続ける電気街を記録するために、2020年12月30日に華強北博物館が開設された。


「何もなかった」黎明期の深圳
1978年の改革開放以降に本格的な建設が始まった深圳は当初、外国資本によって建てられた工場で出稼ぎ労働をするだけの街で、何もなかった。その深圳で、最初に工場や出稼ぎ労働者が住むバラックが建てられた場所が、香港との境界からほど近い華強北だ。博物館は、何もない中にバラックを建て始めたことを示す展示から始まる。

入り口近くに深圳が市となる前の1978年の地図が展示されている。当時は香港との唯一の境界だった羅湖駅から数キロのところに工員のバラックが建てられ、区画整備されて工場が建設され始めた。博物館の展示はそこから始まる。

粗悪なコピー電化製品、特に粗悪な携帯電話「山寨手機」は長らく深圳の、そして華強北の代名詞となっていた。山寨は水滸伝の梁山泊(りょうざんぱく)のような辺境のアジトを指し、転じて政府や大企業の統制が届かないところで好き放題にすることを指す。一回りすれば携帯電話を作る部品がすべてそろう華強北電気街は、安直なアイデアですぐ量産されるコピー携帯の中心地だった。
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