
1959年12月宮城県生まれ。82年東京大学薬学部卒業、塩野義製薬入社。87年米国ニューヨークオフィス駐在。91年に帰国し開発渉外部に配属されるが、94~97年カプセル会社への出向で再び米国駐在。帰国後、社長室勤務を経て99年経営企画部長。社長の塩野元三氏(現会長)と二人三脚で塩野義の構造改革を進める。2004年医薬研究開発本部長、06年専務執行役員、08年4月社長就任。(写真:的野弘路)
- 01 「手代木マジック」前夜、社内はやさぐれていた
- 02 従業員には隠さず「本当のこと」を話す
- 03 従業員のためなら死ねる
- 04 社風改革の前に、まずコストに切り込む
- 05 飲み会の幹事が得意な人はマネジメント向き
- 06 勉強が習慣になっていない幹部は失格
- 07 「ミュージックフェア」を支援し続ける理由
- 08 研究部門の議論を社内に公開
- 09 従業員のために発信力を高める
- 10 業界の常識は世間の非常識
- 11 手代木流・リーダーの心得とは
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生き残りをかけた施策で特に効果があったものは何ですか。
手代木功氏(塩野義製薬社長):当時のマネジメント、部門長レベルと話をして、何がうちの強みだと思うのか、それはなぜかについて、全員に意見を出させました。それは本人が「私は強い」と思っているというだけではダメなので、やはりプルーフ(証拠)を出しなさいと言いました。
どこに競争力があると思っているのか。それはなぜか。そんなに複雑な質問でもないのですが、その問いに対する回答を出してもらいました。それらを横並びで比較したときに、実行できる話といっても当時、うちの会社は研究開発費で500億円を使えるかどうかという状況でした。
2008年は業界全体で合併の嵐が吹き荒れていました。研究開発費1000億円以下の企業なんか即座に潰れると言われていた時期に、400~500億円しか使えないというわけです。こちらとしたらやはり、事業を相当絞り込んで、一つひとつのユニットとして何とか遜色なく戦えるようにしなければ、もうどうにもならないだろうと考えていました。
やはりそこはある程度公平性も考えながら、「今の部門長が知らない強みはおそらくないから、その人たちが出してくるということは、本当の強みよりも若干インフレ気味に出てきているはず」と考えました。その上で、やはり進んでいくとしたらここだろう、これしかないじゃないかと考えて、「これとこれとこれは残念ながら閉じざるを得ないよね」という話をしました。
実は、医薬研究開発本部で一番インパクトがあったと思うのは、全てを“開いた”ことなんです。私が来る前の医薬研究開発本部は、一般的な会社と同じように「本部会議」で1週間や2週間に一度、本部で何をやるかを決めていたのですが、これを全社に開きました。
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