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 注目の美術展や企画展などのキュレーターが、見どころを語る本連載。単に訪れるだけでは分からないような隠れたストーリーなどもつまびらかにしながら、展示の見どころを語ってもらう。

 今週から4回連続で紹介するのは、現在、東京都美術館で開催中の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」。19世紀末のウィーンを代表する画家、グスタフ・クリムト。華やかな装飾性と世紀末的な官能性をあわせ持つその作品は、今なお、圧倒的な人気を誇っている。そんなクリムトの代表作など、日本で過去最多の作品数を集めた展示の「見どころ」は何か。東京都美術館の学芸員・小林明子氏が、より展示を楽しめるよう、クリムトの半生や作品を解説。連載1回目ではクリムトの大きな転機について。旧態依然とした当時のウィーンの美術界に疑問を抱いたクリムトは、35歳の時に「分離派」を立ち上げる。クリムトの背中を押したものは何だったのか。

クリムトは、どのような画家なのでしょうか。

東京都美術館・小林明子学芸員(以下、小林):クリムトは、19世紀の末から20世紀にかけて、オーストリアで活動したウィーンを代表する画家です。

 当時、19世紀後半の欧州は、美術において様々な表現が生まれた時代でした。伝統的でアカデミックな表現から抜け出し、新たなものを生み出そうという機運が、欧州各地、特にフランス・パリを中心に活発になっていた時代でもありました。

 クリムトが活動の拠点にしていたウィーンでも、芸術運動が盛んになっていきました。当時、ウィーンは都市としても大きく発展を遂げている時代で、環状道路が整備され、建物が次々と建てられました。

 そのことが背景にあり、それに伴って美術の世界でも、新しいものを生み出そうという機運が高まっていたのです。

 この時代、パリにはクリムトよりも少し年上のモネがいました。少し上の世代にはゴッホもいた。印象派やその後の世代の画家が活動していた時代に、クリムトはウィーンにいたのです。

 ただ、当時進んでいたパリに対して、ウィーンは美術の世界では保守的なところがありました。伝統的な表現が主流でしたし、パリなどで新たな表現方法が生まれる中、ウィーンは割に都市の中でまとまっていたのです。外国のものを取り入れる柔軟な環境がなく、保守的なのがウィーンだったんです。

 その中で、クリムトはもっと新しく、自由な、時代に合った芸術表現をしていこうじゃないかという運動をしていて、その中心的な存在として作品を作っていました。

当時、クリムトは既に、ウィーン美術界で、常識を超えた作品を生み出す作家として認識されていたのでしょうか。

小林:クリムトは、保守的な画壇からスタートして、クラシカルな表現で知名度を高めていきました。けれど、その中でだんだんと新しいものを作ろう、革新的なものをやっていこうという立場になっていったのです。異端児というか、改革派というか。そういう立場ではあったんです。

クリムトの生い立ち、生涯について教えてください。

小林:クリムトは、1862年にウィーン近郊の家に生まれました。父親は金工細工の職人で、何人かのきょうだいに囲まれて育ちました。10代半ばには、ウィーンの工芸美術学校に入り、そこから美術などについて、勉強を始めます。

学生時代から働き始めたクリムト

小林:学校で何年か過ごしながら、クリムトはその途中でもう仕事を引き受けるようになっていました。

 ウィーンは音楽が盛んなので、劇場の装飾や天井画などの仕事が結構あったんです。そういうものを引き受けたり、美術史美術館の壁画を描いたりして、若いの頃から仕事を持って、画家として活動していたんです。

 そういう中で、クリムトはウィーンの画壇に所属しながら行き詰まりも感じていたようです。ウィーンの画壇は保守的なところがあって、「伝統的でクラシックな表現でないと展示できない」「あまり新しさがない」「ありきたりな表現ばかりが認められる」「会員の中には優遇される人とそうじゃない人がいる」など、色々な不満があったようです。

 若い人が新しい自由な表現を生み出す環境ではない。クリムトはそう感じて1897年、35歳の時に、旧態依然とした画壇を離れようと決断します。

 そして「分離派」を立ち上げる。「分離」というのは、元の集団から分離するという意味です。クリムトが中心となって、若手の芸術家たちが新しくグループを作り、活動を始めていった。

 彼らは自分たちで展覧会を開いたり、ほかの国の同時代の画家たちの作品をウィーンで紹介したりしながら、活動の幅を広げていきました。

 こうやってクリムトは、新しい活動の拠点を持ち、作品も変わっていきます。元のクラシカルで写実的な表現に、装飾的な表現を組み合わせた独特の様式を発表していくようになるわけです。

 それには支持する人も反対する人もいて、なかなかハードな立場ではありました。けれどクリムトは、ウィーンの旧態依然とした美術界の人たちに対して、自分の立場を表明していく。そういう活動をしていったんです。

 その後、クリムトは55歳で亡くなりますが、彼の活動は戦いの歴史だった。アカデミックなものに対抗していくのが、クリムトのスタンスだったとも言えます。

クリムトは生前から高く評価されていたのでしょうか。

小林:新作を発表すると、大体、賛否双方があったんです。一緒にグループを作った人たちはもちろん支持してくれますし、同時代の批評家の中でもクリムトを応援する人はいました。パトロンもコレクターも存在しました。

 一方で、強烈な批判に遭うこともあったようです。女性が裸体をさらしていたり、極端に官能的でなまめかしい表現だったり、また表現そのものが伝統的なものではなかったりすることが批判されたようです。

「クリムト展」ラインアップ 全4回(毎週金曜更新)
  • 01 クリムト、「異端児」に生まれ変わった35歳
  • 02 ウィーン美術界の常識を破った革命児、誕生!
  • 03 絢爛クリムト作品に、ジャポニスムの影響が?
  • 04 婚外子は14人!波乱万丈の人生が大作の原動力?
※今後の内容は変わることがあります
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【概要】

  • 美術展 :「クリムト展 ウィーンと日本 1900」
  • 期間 :2019年4月23日~7月10日
  • 会館時間:9時30分~17時30分(入室は閉室の30分前まで)
  • 開催場所:東京都美術館
  • 住所 :東京都台東区上野公園8-36
  • サイト :https://klimt2019.jp/