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 今回のテーマは「教育」です。と、そう聞くと、多くの人は大学改革の話などを想像するかもしれません。しかし私の関心は、それとは別のところにあります。

 もちろん大学、あるいは大学院というものが社会経済に果たす役割というのはとても重要で、それを軽視しているわけではありません。日本の学術研究の水準が低下していることは憂うべきことであり、そういう問題意識から、世界に向けて研究論文を発表し続ける沖縄科学技術大学院大学(OIST)のようなところも生まれてきています。科学の分野で先端性を追求し続けるためにOISTのような「特別な存在」はどんどんつくるべきだし、学術研究に対する意欲や資質を持った若者には飛び級などを認めて、環境をつくって与えて、最先端を走らせればいい。

 しかし、私が今、強い問題意識を持って見ているのは、そういう高度教育や学術研究の場ではなく、義務教育から高校まで含めた教育の在り方なのです。

<span class="fontBold">新浪剛史[にいなみ・たけし]</span><br />1959年生まれ。81年に三菱商事入社。91年に米ハーバード大学経営大学院修了、MBA(経営学修士)を取得。2002年ローソン社長CEO、14年より現職(写真/的野 弘路)
新浪剛史[にいなみ・たけし]
1959年生まれ。81年に三菱商事入社。91年に米ハーバード大学経営大学院修了、MBA(経営学修士)を取得。2002年ローソン社長CEO、14年より現職(写真/的野 弘路)

 ごみを道端に捨ててはいけません、ということを守ってもらうためには、ごみを捨てたら罰せられるという法律を作るシンガポールのようなやり方もあります。しかし日本では、そんな罰則がないのにごみを捨てる人が少なかった。その根底には「周囲に迷惑を掛けることをしてはいけない」という、コミュニティーの一員としてどうあるべきかという共通のエシックス(倫理)があり、それを形成した教育があったんだと思います。教育アセットの厚みによってコミュニティーが維持されてきたということでしょう。

 明治以降の学校制度による近代教育を待つまでもなく、江戸時代から、武士階級だけでなく多様な階層の人たちがそうしたコミュニティーの基盤を営々と築き上げてきました。座学だけでなく、生活の中で、あるいは自然の中で子どもを育てていくシステムが働いていたのです。しかもその教育システムは、地域ごとに、豊かな多様性を持っていました。

大量生産型教育は役割を終えたはずなのに

 今はまさに、そうしたコミュニティーを維持していくための教育システムを復活させる好機ではないかと思うのです。

 明治以降の殖産興業以来続く産業構造の転換により、それぞれの地域にあった家内制手工業や軽工業が、都市部やその周縁の工業地帯に集約されていき、日本の各地域が培ってきた多様性よりも「均一性」が求められるようになりました。結果として教育システムもまた、均質な労働力を生む“大量生産型”に変質を余儀なくされていきました。全国の小学校で同じ言葉、同じ内容の授業が行われ、均一水準の学力テストで学校が序列化されて、誰もがなるべく偏差値の高い高校に進み、AO入試はあるものの、大半は一発勝負の試験で大学に進むことを目指すような仕組みになりました。

 そこから生み出された人材が大量生産モデルの時代に良質な労働力となり、とりわけ戦後日本においてその高度成長を支えたことは間違いありません。義務教育水準の高さがソフトパワーの源となって国際競争力を高め、1億総中流と言われる安定的な社会構造を生み出し得たのも確かでしょう。

 問題は、教育の仕組み全体が、社会構造が激変した今も何ら変わっていないことです。

 いわゆるバブル経済の崩壊とそこから続く低成長の時代、製造業の生産拠点が海外に移転して空洞化が起こり、職を失った人たちがサービス業に移りました。モノを大量生産していた時代と、コミュニティーの中で人と人とが触れあいながら価値をつくり上げていくサービス業の割合が大きくなった時代とでは、求められる人材は異なるはずなのに、相変わらず均質的な人材を量産するための教育が行われ続けています。日本社会には戦後の成功モデルから脱却しなければならないという課題がいたるところにありますが、教育はその最たるものです。にもかかわらず、大学改革は議論の俎上(そじょう)に載せられますが、初等教育はほとんど顧みられていません。

 そもそもその均質的な教育システム自体も危機にさらされています。バブル経済崩壊と、その後の低成長の時代は、右肩上がりを前提に設計されていた様々なインフラを劣化させてしまいました。大学受験をゴールとした全国均一の教育システムも例外ではありません。産業構造の変化についていけていないだけでなく、そもそも維持が難しい水準に向かいつつあると言っていいでしょう。