10月1日、神奈川県湯河原町で一風変わった温泉旅館が開業した。名前は「夢十夜」。湯河原にゆかりのある夏目漱石の短編集から着想を受けたデザインが特徴的で、客室や共用部などにはたくさんの本が備えられている。県産の食材を使った食事が売りでロビーでは地元産の菓子類や地元にゆかりのあるアーティストの工芸品などが販売されている。「客単価2万円を目指す」(運営会社の小林豪代表)高価格帯の宿だ。

「廃虚」旅館を客単価2万円に

湯河原温泉の発祥の地とされる「湯元通り」に開業した「夢十夜」。全19室と小規模で部屋にはテレビがない。ゆったりとした時の流れを、本を傍らに楽しむのがコンセプトだ
湯河原温泉の発祥の地とされる「湯元通り」に開業した「夢十夜」。全19室と小規模で部屋にはテレビがない。ゆったりとした時の流れを、本を傍らに楽しむのがコンセプトだ

 ここはもともと、「廃虚のよう」(小林氏)な古びた旅館だった。各客室には風呂もなければトイレも備えられておらず「客単価は取れて1万円強」(同氏)。長年赤字を垂れ流していた。そんな宿を、地域経済活性化支援機構(REVIC)や地元金融機関などが出資するファンドが資金提供した会社の手で買い取って改修。その上で、近隣で高級旅館を展開する会社に運営を委託する。こうしたスキームで夢十夜は生まれた。

 今後湯河原ではもう1軒、経営難の宿を長期で賃借した上でリノベーションし、同じ運営会社に営業を委託する取り組みを進めるという。運営会社としてはリスクを抑えながら事業拡大を図れるほか、食材の仕入れなどでスケールメリットを働かせられるメリットがある。今後はセントラルキッチンの導入なども検討する。

 この一連のスキームは観光庁の分科会での議論がベースとなって作り上げられている。収益性が悪化し投資余力が減退すれば、施設の老朽化やサービス品質の低下を招き、客単価の水準が下がる。結果的に投資の停滞が一段と進み、さらなる競争力の低下を招くという宿泊事業者の悪循環をいかに食い止めるか、というテーマだった分科会。その中では全国の旅館へのアンケートを基に事業者を約2割の「成長・新興旅館」、約5割の「成熟旅館」、約3割の「衰退旅館」に分類できるという仮説を立てた。

 簡単に言えば、成長・新興旅館は資金調達意欲が旺盛で積極投資をしている事業者、成熟旅館は地域で中心的な地位を占め、収益力はあるものの積極的な資金調達意欲には乏しい事業者、衰退旅館は生産性も収益性も低く、過剰債務を負う事業者だ。その上で所有と経営の分離を進めつつ衰退旅館の事業をうまく成熟旅館に承継させていけば、地域の観光経済を上向かせられると考えた。このアイデアを実際に今、町や地元信金などを巻き込んで湯河原を舞台に検証しているのだ。

 観光庁の柿沼宏明観光産業課長は「旅館の一つ一つを再生、高付加価値化していく。そしてその地域全体を高付加価値化していく。これしか日本の各地域を守っていく手段はないのではないか。(湯河原のプロジェクトは)その成功モデルにしていきたい」と話す。

 この2年半、苦しみ続けた観光事業者にとっては、目先の収入も重要だ。だからこそ11日から始まる「開国」によるインバウンド誘致、そして国内旅行を促進する「全国旅行支援」には一定の意義がある。一方で観光産業の構造的課題を解決する処方せんを提示し、その実現に向け推進力を発揮するという長期的な取り組みも欠かせない。

 中小事業者が多くを占める観光業界。自発的な変革を望むのは難しい。ただ観光は地方経済の柱の一つでもある。観光庁や国土交通省、政府が各地で観光業の再興に向けた布石を打ち、成功事例を横展開していく、という地道な作業の旗振り役を担わなければならない。岸田首相を始めとした官のトップたちは、こうした取り組みを通して産業構造のグランドデザインを描き、示していく必要があるだろう。

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