セラミック部品ベンチャーを世界的な電子部品メーカーに育て上げた稲盛和夫氏。人々を魅了したのは、経営者の枠にとどまらない、無私を貫いたその人間性にある。稲盛イズムはどう形成されたのか。日経ビジネスの記事を再構成して振り返る。

「社会が必要としているもので、開発不可能なものはない、というのが私の信念です」
1973年7月9日号の日経ビジネスに京都セラミック(現京セラ)社長として登場した、当時41歳の稲盛和夫氏はこう語っていた。自信たっぷりのようにも見えるが、実際には、開発できなければ、生きていけないという悲壮感から生まれた「信念」だったはずだ。
1959年、スタッフを含めて28人でスタートした京セラ。いくら技術力があっても、名もないベンチャー企業に、すぐに顧客が飛びつくわけがない。「注文が出たら絶対断らない。技術的な裏付けがハッキリしていなくても、『やりましょう』と引き受けてくる。引き受ければやらざるを得ない。ダメでしたではもう相手にしてくれない。必死に技術開発をし、納品する」。稲盛氏は創業時代の取り組みをこう振り返っている。
「みじめだった」米国行脚
当時、外国からの技術導入に頼っていた日本。国産技術の評価はなかなか得られなかった。そこで稲盛氏は海外に目を向けた。それも「技術の国」、米国である。「日本の企業が輸入している製品に京セラの部品が使われていれば」。いわば、国産技術を逆輸入させる発想だ。
「語学はダメ」だという稲盛氏だったが、足を棒のようにして米国中を歩き回った。東部から西部へ。西部から東部へ。ホテルも食事も切り詰めての御用聞き。それでも63年、64年の訪米時の注文はゼロ。稲盛氏は「みじめだった」と述懐している。
65年の3度目の訪米で果実を得た。当時、日本の技術や製品を導入しないことで定評があったという米半導体大手テキサス・インスツルメンツ(TI)から米航空宇宙局(NASA)の宇宙計画で使うセラミック部品の受注を勝ち取ったのだ。西ドイツのメーカーとの競争の末での初めての注文。これを突破口に京セラは米国進出の足掛かりをつかみ、成長の土台を築くことになる。
急成長を遂げた京セラは、71年に大阪証券取引所第二部と京都証券取引所に、翌72年には東京証券取引所第二部に株式を上場。セラミックス部品の急成長企業として一躍注目を集めるようになる。
それでも稲盛氏は浮かれなかった。73年7月9日号の記事では稲盛氏のこんな言葉を紹介している。
「京セラの今日を築いたのは信頼に基づく人の和である」
鹿児島大学卒業後に就職した京都の碍子(がいし)メーカー、松風工業を先輩や上司などと共に飛び出して立ち上げた京セラ。その仲間たちで「一致団結し、世のため人のためになることを成し遂げる」と、誓いの血判状を押した逸話が残る。創業資金は、稲盛氏が持つ技術力と人柄にほれ込んだ人々が援助。その額は300万円だった。「この金を思い通りに使え。しかし、この金に使われるな」。出資者は稲盛氏にそう助言したという。こうした人たちの決意と助けがあったから京セラは誕生した。だから稲盛氏は「信頼に基づく人の和」を大切にしてきた。
とはいえ、創業時の稲盛氏は弱冠27歳。一介の技術者が社員を率いる立場になった。後に稲盛氏は日経ビジネスの連載「敬天愛人~西郷南洲遺訓と我が経営」(2005年10月3日号から13回)で、「一体全体、どうやって物事を判断すればいいのか迷いに迷いました。その間にも、私の判断を求める案件はどんどん上がってきます」と振り返っている。
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