懸念1:香港政府・中央政府の権限強化

 一つ目の懸念は国家安全に関する香港政府と中央政府の権力が、歯止めが利かないほど強くなってしまうということだ。

 香港政府の一機関として新たに香港特別行政区「国家安全維持委員会」が設置される(12条)。14条はその委員会の業務について公開しないことを定め、さらにその決定は香港の裁判所による司法審査も受けないと定める。香港の財務当局トップが「国家安全維持委員会」に対し予算を割り振る際に、既存の予算に関する規定に従う必要がないという条文もある(19条)。これは「国家安全」に限った話だけではなく、国家安全の名の下に国家安全維持委員会はどのような政策に関しても決定権限を議論の過程を公開することなく拡大することができ、さらにその拡大は司法によって歯止めをかけられることがない可能性を示す。

 また、中央政府は香港に国家安全を保護する出先機関として「国家安全維持公署」を設置する。国家安全維持公署は55条で定めるような香港政府が管轄権を行使するのが難しい時などに限って管轄権を行使できると定められ、55条が適用された場合は検察・裁判は北京側が管轄権を持つことになる(56条)。60条において、国家安全維持公署の職員の行為は香港の法律の制約を受けないことも示されている。中央政府の職員が香港法の制約や香港の司法による監視に影響されることなく香港で捜査する権限を有することになる。

懸念2:「司法の独立性」の弱体化

 政府の権限強化と同時に、香港の司法の独立性が損なわれることへの懸念もある。前回の記事でも説明したように行政長官が国家安全犯罪の裁判に関わる裁判官を選出できることは、起訴する体制側に有利な裁判官を選ぶことが可能につながる(44条)。行政長官は終審法院(香港の最高裁判所に当たる)の首席法官の意見を聞くことが「できる」とも定めてあるが、これは逆にその意見を聞かなくともよいとも読み取れる。

 指定裁判官に選出されたとしても、国家安全に背いた発言をした裁判官はその指定裁判官としての資格が取り消されるとも定められており、政府の国家安全政策に反する判決を下すことはかなり難しいだろう。また、46条は必要に応じて香港の法務当局トップの律政司長の決定により陪審員なしで政府の指定した裁判官のみで裁判を進められることも記されており、さらに裁判の一部を非公開とできることも定められ(41条)、国家安全犯罪について司法の独立性への懸念がある。

 また何が国家安全に関することで、何が国家機密となるかが争いになった時にその決定は行政長官が行い、その決定は裁判で拘束力を持つとも定めがある(47条)。これは香港政府が国家安全の範囲を合法的かつ無制限に拡大できてしまうことを示している。この範囲を恣意的に決定すれば、あらゆる裁判を国家安全に関わるものとして体制側に有利な裁判官によって判決を下させることができる。

懸念3:捜査権限の大幅強化

 43条は、香港警察の中に設置される国家安全維持部門の権限強化について定めている。国家安全維持部門は司法の決定に基づくことなく、インターネット上などの情報の削除を求めることができ、令状なしの資料提出の要求もできるようになる。また、これまで「通信傍受監視条例」において定められていた規制に関係なく行政長官の承認の下、通信傍受や監視を行えるようにもなる。これらとは別に42条ではこれまで原則として認められてきた保釈が国家安全犯罪については原則として認められず、裁判なしに長期収容される被疑者が発生する可能性がある。何をもって国家安全犯罪とするかは先述の通り行政長官が決定できるので、国家安全犯罪の範囲を恣意的に決定すれば香港警察はあらゆる事件についてこのような強力な捜査手法を合法的に取ることが認められる。

懸念4:メディアや情報への統制強化

 54条では中央政府の出先機関である国家安全維持公署と外交部駐香港特派員公署は香港政府とともに、外国組織・国際組織の香港にある機構、香港にある外国の非政府組織・メディアへの「管理」と「サービス」を強めることができると規定されている。なお、原文では「外国」と「境外」という表現になっており、後者の表現からこの扱いには台湾も含まれると考えられる。このことから中央政府は今後香港にいる外国メディアに対して、何らかの措置を取る可能性がある。

 34条では香港の永住権保有者以外が香港国家安全維持法に違反すれば、刑事責任が認められなかった場合でも香港から強制追放されうることを記している。この条文を根拠に外国メディアが香港から追い出される可能性も否定できない。

 41条では報道機関や公衆に対して公判の一部もしくは全てを非公開とすることが可能とされている。また、63条で被疑者の弁護士が裁判の詳細を国家秘密などを理由に他者に話すことについて法的に制限を受ける可能性があり、また事件処理に関係する機関や個人が事件の詳細について秘密にしておくべきだとある。国家安全に関する犯罪の裁判の報道が簡単にはいかなくなる可能性がある。

懸念5:何が対象なのか、誰に適用されるのか不明

 香港国家安全維持法の全体を通した特徴は、具体的に何が犯罪となるのか分かりにくいという点だ。例えば21条は、国家分裂罪は他人を扇動・ほう助・教唆・資金援助した人にも適用されるとしているが、その範囲は曖昧だ。7月1日に香港島で行われた抗議活動では、香港独立の旗を持っているだけで逮捕された抗議者がいた。旗を持っているだけでは20条で規定するような国家分裂を実際に行おうとする行為に該当すると主張するのは難しいので、おそらく21条に基づいて逮捕されたと思われる。仮に起訴されれば、旗を有するだけの行為が実際に他人を「扇動」する行為につながるかどうか争われるだろう。

 また、37条や38条では、香港に永住権を有するかに関わりなく、全世界どこで行われた行為についてもこの法律が適用されることが明確になっている。香港で登録された航空機や船舶に対してもこの法律が適用される。例えば、日本で国家安全上問題があるとされる発言をした人が香港に入境する瞬間、国家安全を理由に逮捕されることも法律上はあり得る。

実際は運用次第

 本記事ではここまで香港の民主派が提示する様々な懸念点を取り上げた。この懸念が現実化していくかは、今後の法律がどのように運用されるのか次第である。

 しかし、運用がどうであれ、これまで述べてきた条文がいつでも使えるものとして明確に存在する以上、香港国家安全維持法は確実に畏縮効果をもたらすだろう。実際、香港政府のキャリー・ラム行政長官は、国家安全法は実際に国家安全に関する罪を犯した人を罰することだけではなく、犯罪の抑止(deterrence)も企図していると7月1日の記者会見で述べている。「国家安全」という曖昧な概念で網をかける今回の法律の各条文がどう受け取られ、その運用が香港の政治環境に今後どのような影響をもたらすのかは継続して見ていく必要がある。

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