今までやってきて、よかったな――。そう素直に思えた出来事がありました。

 東日本大震災が起きてちょうど10年になる今年の3月11日から12日にかけて、岩手県宮古市、山田町、大船渡市、宮城県気仙沼市から、さらに南下して仙台市、福島県相馬市と、被災したエリアを回りました。

 2011年当時、私はローソンの社長を務めていましたが、被災した店舗がいくつもあったので震災直後に現地に入りました。そのときの現地の様子は今もまざまざと思い起こせるほど過酷なものでした。失われたものは二度と戻らず、がれきが取り除かれてきれいに整地されてもいまだ人が戻らない町があり、厳しい現実の中を生きる方々がいらっしゃるのは確かです。一方で、わずか10年とは思えないほど力強く新たな生活を切り開いている方々とお会いすることもできました。

 山田町には、サントリーホールディングスが復興支援のために取り組む「東北サンさんプロジェクト」の一環として建設費を支援した、山田町ふれあいセンター「はぴね」という施設があります。図書館を中核とした、地域の住民が交流するための施設です。震災が発生した3月11日14時46分に、この施設で職員の皆さんと黙とうをささげました。

 「はぴね」の館長から山田町の現状についてお話を伺ったのですが、その中で「会わせたい人がいる」と。紹介された女性はそこで働く20歳代の職員さんでした。その女性は、ローソンが復興支援のために創設した「夢を応援プロジェクト」(大学や専門学校に通う被災者の子弟に最大7年間、月額3万円の奨学金を支援)にご参加いただいた方でした。

 その女性が「基金に助けられて勉強を続けることができたおかげで、今も地域で働けている」とお礼をおっしゃるのです。マスク越しで表情はよく見えませんでしたが、涙を浮かべておられる。私はびっくりして、すぐには言葉が出ませんでした。そしてローソン時代の「夢を応援プロジェクト」のことを思い出しました。忘れていた自分が恥ずかしくなりました。

 彼女には、私に挨拶するため、被災されたつらい出来事を思い出させることになってしまったかもしれないと思いましたが、笑顔で「お会いできて本当にうれしい」と。つらい現実を乗り越えて前向きに頑張っている彼女の姿に、「自分も頑張らないと」と思わされ、涙が出てきました。ローソンとサントリーの両社に社長として関わって、その中で彼女のように頑張る人の力に少しでもなれた。今までやってきて、人生本当によかったなと。

 10年前に基金を創設したときに考えていたのは、まず「レスキュー」でした。とにかく困っている人たちを何とかしなくちゃいけない。ですが、若い人たちへの奨学金という方法を取ったことで、一時的なものとして消費されただけでなく、10年たった今も息づいています。「はぴね」も同様です。館長に伺うと、今や地域に残った若い人も含めて広く3世代にわたる人たちが集う場になっている。一時的な緊急支援だけでなく、継続的にコミュニティーの再結合を支援するような取り組みを企業が担うことに意味があると実感しました。

 そうして若い人たち、地域の人たちが意欲を持って力強く生活を営めるようになり、コミュニティーが再生されていくその中に、私たちの商品やサービスが息づいて事業が成り立っていくのだと思います。あのときのお父さん、お母さんが亡くなったとか、おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなった、親類や友人が亡くなった。でもそういう不幸を乗り越えている人たちがいるから、私たちの商品を買っていただける。私たちの商品を買っていただくためには、生きようという「希望」がなくてはだめなんです。

 SDGsは私たちにとってすごく重要な課題です。二酸化炭素を減らさなきゃいけないのも当然ですし、プラスチックによる海洋汚染をなくさなければならないのも当然です。ですが、前回書いたように、そうした課題に取り組むための枠組みをめぐる議論すら、各国が描く成長戦略によるヘゲモニー・ファイト(覇権争い)になってしまっている。グリード(貪欲)は成長の原動力ですが、果たして、それだけでいいのか。企業は善なるものへのエシックス(倫理)を大事にして、コミュニティーの一員としてその維持に貢献していかないと生き残っていけなくなるのではないか。今回、東北ではそんなことをまざまざと実感させられ、自分自身を経営者として改めて見つめ直す契機をもらいました。

限られたリソースを生かすために“トリアージ”を

 今回の滞在で、福島県相馬市の立谷秀清市長にも再会しました。震災のときに彼とやり取りしたことを今もよく覚えています。

 震災直後、被災した相馬市で給食が出せなくなって困っているという話を聞き、ローソンは支援を決めました。最初に運ぼうと思っていたのは、携帯性の高いおにぎりでした。しかし立谷市長は「何とかお弁当にしてもらえないか」とおっしゃる。いかにも非常食に見えるおにぎりではなく、おかずが並んだお弁当を子供たちに食べさせたいという思いをお持ちでした。それを聞いて私はすぐに了解し、手配を指示しました。

 当時、被災地だけでなく首都圏も品不足にあえいでいたのです。相馬市にお弁当を運ぶということは、結果的に、特に首都圏での欠品をさらに増やすということにもなりかねません。それでも私は届けるよう指示しました。商品や原材料がゼロサム以下になっている危機にあって、どこかを犠牲にする優先順位を決められるのは経営者だけです。特にローソンは支社制による分権化を進めていて、首都圏と東北はそれぞれ独立した意思決定の系統になっていたので、首都園は首都園で必死に欠品を回避しようと汗を流していました。この支社の利害を超えて調整するのは私の仕事でした。

 何とかお弁当を相馬市に送ったあとで、立谷市長から電話がありました。そこで市長がおっしゃるのです。「粋なことをするね」と。何のことか分からず尋ねると、お弁当に、「プッチンプリン」が添えられていたというのでした。

続きを読む 2/2 「有事」の可能性から目を背け続けた日本

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