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 川口教授は「探査対象をごく小さな星にすれば、立ち後れた日本でも一気にサンプル持ち帰りまで実施できる」と気がつき、まずそのための技術試験機として初代はやぶさを立ち上げた。

 工学者である川口教授の野心に、理学系の惑星科学者も乗った。というのも、小惑星のような小さな星のサンプルには、生成したばかりの初期太陽系の状況を今に遺す「太陽系の歴史を示す星の化石」という性質があったからだ。大きな星のサンプルと性質が異なる、科学的に重要な探査対象だったのである。

 初代はやぶさは、当時の日本の能力にとって、ぎりぎりまで背伸びした計画だった。また、そもそも探査機をどのように運用すればより安全かつ効率的に運用できるかということも分かっていなかった。初代はやぶさの運用はトラブルの連続で、何度となく決定的な失敗となるかもしれない危機をぎりぎりのところで切り抜けた。2005年11月に小惑星イトカワへの着陸を成功させた直後には、通信が途絶。2006年3月まで音信不通となった。

初代の奇跡の成功が、2代目への逆風に

 川口教授がはやぶさ2構想を立ち上げたのは、まさにこの通信が途絶している間だった。そこにあったのは「探査は継続的な積み重ね(プログラム)であって、続けていかなければ技術もノウハウも蓄積されることなく失われる」という危機感だ。

 この時点でのはやぶさ2は、「初代はやぶさが失敗した場合にも、小惑星サンプルリターンという野心的な試みを途切れることなく継続させるために、同型の探査機を短期間で製造して打ち上げる」という目的のためのもので、2010年打ち上げを想定していた。

 ところが、初代はやぶさの翼は折れていなかった。

 2010年6月、初代はやぶさは地球帰還を成し遂げ、小惑星イトカワのサンプルを地球にもたらした。危機に次ぐ危機を、知恵と機転とで乗り越えた帰還は社会全体を巻き込んだ一大ブームを巻き起こし、映画が何本も制作されたほどだった。

 この帰還は、はやぶさ2(と、日本のプログラム的探査)に追い風となっただろうか。

 そうではなかった。吹いたのは「成功した者は罰せられる」と形容するしかないような逆風だった。

 宇宙の彼方で辛くも初代が生き残ったことで、はやぶさ2は地上の「よしなしごと」に巻き込まれた。

 初代の運用が続いているという理由で「予算は前が終わったら」と先送りされてしまう。さらには科学者たちの意見が計画推進の方向でまとまらない。探査の主役である科学者の意見がまとまらないので、ますます予算がつかない。打ち上げ時期は2010年から2011年へ、2012年へ、さらに2014年へとずれていった。