「妻と子供と一緒にお前を爆弾で殺す」。香港で香港国家安全維持法(香港国安法)案件の指定裁判官となった蘇惠德(ビクター・ソー)裁判官は2020年12月、こんな脅迫電話を受けた。

 香港では反政府デモの参加者に不利もしくは有利に見えるような判決を下した裁判官やその家族の個人情報などが、ネット上でさらされ攻撃されることが珍しくない。民主派がよく利用する匿名性の高いSNS「テレグラム」には、裁判官の個人情報が次々と投稿されるグループもあるほどだ。

 20年11月13日、司法職員の個人情報をネット上で拡散するなどの嫌がらせを禁止する仮差し止め命令の継続が認められた。この仮差し止めは香港政府が申請したもので、命令に反した行為をすれば法廷侮辱罪に問われる。

終審法院の前で香港の司法が中国化していることを主張する市民(写真:Alex Chan Tsz Yuk)

「裁判官は黄色と青色の間の決定はしない」

 この司法判断を下した際、香港の高等法院のラッセル・コールマン裁判官は以下のような書き出しで始まる決定文を発表した。

 「係争案件で裁判官が下すほとんどの決定は、単に黒か白かの選択ではない。 しかし、裁判官が『青』と『黄』の間で選択を行うような決定をすることはない」

 裁判は様々な推量によって行われ、その範囲は裁判官によって異なるかもしれない。だが、「黄色」と称される民主派寄りの政治的思想や、「青色」と言われる体制寄りの政治的思想によって判決が下されているわけではないという内容だ。だが、その後も裁判官ら司法職員へのドキシング(他人の個人情報をインターネット上にさらす行為)は続いている。

「デモの犠牲者」に同情的な裁判官

 香港の一部の人々は、裁判所による判決が不公平に下されていると根強く考えている。

 19年8月、デモ支持や政府批判のメッセージが多く貼り付けられている「レノン・ウォール」がある現場で、記者1人を含む3人が刺された事件があった。犯人はデモに対して強い反感を持っていたとされる。

 20年4月、郭偉健裁判官は同事件の被告に45カ月の禁固という判決を下した。ところが判決文の中で「被告がデモの犠牲者である」と言及したことで、デモに批判的な被告に同情的姿勢を前面に出した判決だとして、民主派寄りの一部の人々から批判を受けることになる。

 その後、香港の最高裁判所に当たる終審法院首席法官は、裁判官が不必要に政治的意見を表明することは司法の独立と信用を失うと声明を発表。郭偉健裁判官はデモに関係する裁判からは外されることとなった。

体制側からも厳しい批判が

 逆にデモ参加者に対して有利な判決を下した裁判官は、体制側から批判を受けることになる。例えば、何俊堯(スタンリー・ホー)裁判官は体制側から名指しで厳しい批判を受けた裁判官の一人である。

 ホー裁判官は20年9月、スプレーとレーザーポインターを所持していたことで逮捕された17歳の学生に無罪判決を下した。犯罪を証明するための警察官の証言が二転三転して信ぴょう性に欠けており、スプレーとレーザーポインターといったデモに使われるとは限らない一般的な物品が、合法的な目的で利用されようとしていた可能性を排除できないと判断したのだ。

 この判決は、デモに批判的な人々の一部から強く非難された。彼らからするとスプレーとレーザーポインターをデモ現場で所持していたことは、違法行為をしようとしていた明らかな証拠に思えたからだ。この非難はオンライン上にとどまらず、ホー裁判官の家は「犬裁判官」などとスプレーのようなもので落書きされた。

 中央政府の香港出先機関である駐香港特別行政区連絡弁公室と資本関係を持つ「大公報」と「文匯報」は、ホー氏を厳しく批判した。例えば大公報は「ホー氏が裁判官という立場を忘れて、被告の弁護士になり変わってしまった」と指摘している。さらに、デモ反対派の被告に同情を示した郭裁判官は関連する案件の担当を外されたのに、ホー氏は昇給と昇進を得ており、裁判官同士の間に「法の前の平等」がないと批判している。もっとも、ホー氏は無罪推定という法の基本原則に従って判決を出したにすぎないのに対し、郭氏は判決中に自身の政治的心情を述べ過ぎた点で批判されているのであり、両者の比較には無理があるだろう。

双方から批判される黎智英氏の保釈判断

 双方から批判されることになった司法判断もある。その一つが、香港国安法などの違反で起訴された蘋果日報(アップル・デイリー)の運営企業、壱伝媒集団(ネクスト・デジタル)の創業者である黎智英(ジミー・ライ)氏の保釈を認めた高等法院の判断だ。

 民主派側の人々が批判する点は、その厳し過ぎる保釈要件である。黎智英氏の保釈に当たっては1000万香港ドル(約1億3000万円)の保釈金、30万香港ドル(約390万円)の保証人による保証金だけではなく、外国の政府関係者との接触・インタビューを受けること、文章を発表すること、SNSで発信すること、外出・海外渡航など、多くの禁止事項がその条件に含まれた。また、週3回は指定された警察署に出頭しなければならない。警察署への出頭と裁判所への出廷以外の外出は完全に禁止されているため、これでは軟禁と変わらないという批判もあった。

 一方で、体制寄りの人々や体制側も、この保釈判断を批判した。文匯報は黎氏が香港国安法施行後も外国勢力と結託し、「反中乱港(反中的で香港を混乱させる)」のための違法行為を行っていると指摘し、逃亡の可能性も極めて高いと主張した。このような緩い保釈判断は香港国安法違反であり、香港の司法改革が必要なことを示しているとも述べている。中国共産党機関紙の人民日報はSNSで、「黎智英氏のような国を裏切った乱港分子は必ず法律によって罰を受けるべきである」と主張し、香港の司法判断を批判している。

 梁振英前行政長官は、日産自動車元会長のカルロス・ゴーン氏が自宅への監視カメラ設置など厳しい保釈条件があった中でも日本からレバノンに逃亡できたことを引き合いに出し、自身のフェイスブックページ上で「裁判所がこのような条件で保釈を認めれば、黎智英氏が逃亡するかもしれない」と指摘している。

 香港政府の法務当局である律政司もこの保釈決定を否定的に受け止めた。この保釈決定の取り消しを求めて高等法院に申請したが却下され、その後香港の最高裁判所に当たる終審法院に緊急審理を申請している。

 香港の弁護士会に当たる香港律師会の理事複数名は、体制派メディアの記事を裁判所への圧力であると批判し、根拠のない攻撃をやめるよう求めている。

 その後、終審法院は20年12月31日、黎氏の再収監を決定した。

どのような判決でも必ず批判が

 今や香港の裁判所はどのような判決を下しても民主派寄り・体制寄りのいずれかからほぼ確実に批判を受ける状況にあり、前述の通り裁判官への個人攻撃も起きている。香港国安法はこれまでの香港法とは全く異なる異質な法で、誰もが参照できるような明確な基準がない。そのため、国安法に関する裁判は民主派寄り・体制寄りの両方の人々から批判を受けやすい。

 政府ですら香港の司法職員を十分に擁護していないことを、一部の裁判官は不満に思っているようだ。それは冒頭で述べた司法職員へのドキシング禁止の仮差し止めの決定文に以下のような記述があることからも読み取れる。

 「香港のようなコモンロー法域では、司法行政を担当する大臣は、誤った告発から司法や個々の裁判官を守る義務があるという伝統があった。しかし、残念ながら、その伝統は衰退しているようであり、現在では必ずしも尊重されているとは言えない」

 我々は香港メディアを通してでさえ、香港の裁判所の内部でどのような力学が働いているのかをうかがい知ることはできない。それほど司法システムの中でどういう政治原理が働いているかは表に出てこない。だが、多方面からの様々な形での圧力が裁判官にかかっていることは、この記事で述べた事例だけを見ても容易に理解できる。

 表面上は「法の支配」の下で、政治的なものからの距離を強調する香港の司法。しかし、急速に政治化していった香港という都市で政治的主張と距離を置くのは裁判官にとっても容易ではないようだ。

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