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今や世界中で食べられているインスタントラーメン。今回はその普及の端緒を開いた日清食品創業者・安藤百福氏の言葉をお送りします。NHK連続テレビ小説「まんぷく」のモデルともなったその挑戦に満ちた半生を、齢94、かくしゃくとして振り返っています。

掲載:2004年2月23日号(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

45年前、大阪の民家の片隅で生まれた1つの商品が、今年度、過去最高の販売を記録した。日清食品の「チキンラーメン」。即席麺という、日本から世界に広がった一大産業の端緒となった。創業者の開発魂と執念は、日清が業界の王者となった今も絶えることなく社内に息づいている。飢えたように独創的な発想を求め、いまだ続くデフレに抗って基幹ブランドの価値を死守する。奇抜な社内システムが紡ぎ出す異様な活力が、飽くなき革新を生み続ける。(国司田 拓児)

(写真:AP/アフロ)

 48歳で「チキンラーメン」、61歳で「カップヌードル」を開発した男は、3月5日、94歳になる。日清食品の創業者、安藤百福氏。同氏が丸1年もの間、庭に建てた3坪の小屋に1人こもって開発したチキンラーメンは、発売45年目の今年度、過去最高の販売数量を記録した。このロングセラー製品の生命力は、日清と即席麺産業にかける百福氏の執念そのものだ。

 今も会長として毎日出社する。商品戦略は二男の安藤宏基社長(56歳)に委ねるが、設備投資などの財務案件や部長以上の人事の最終決定は百福氏が下す。毎週火・土曜日の早朝には欠かさずゴルフ場で9ホールをプレーする。

安藤氏:私なんか、若い者から見ると翁(おきな)でしょう。しかし、90歳になっても働けると思えば働ける。50歳になって「わしはあかん」と思えばそれで終わり。要は心の問題ですわ。

 週2回はゴルフに行って、いつも気分をさわやかに保つようにしています。大食はしません。昼時には毎日、チキンラーメンのミニサイズを吸い物代わりに食べています。即席麺は体に悪いと言う人がいますが、私を見たら何て言うでしょう。

 昭和33(1958)年、チキンラーメンを初めて発売した時には、即席麺市場の成長をおぼろげに想像していました。しかし、確信はなかった。

 ラーメンに最初に興味を持ったのは、戦後間もなく大阪・梅田の焼け野原で屋台のラーメンに行列を作る人の姿を見た時です。その後、別の事業や信用組合の理事長をしましたが、ラーメンのことはずっと気になっていました。信組が破綻し、無一文になってから、ラーメンの開発を思い立った。人間、どうにもならんような羽目に陥った時は、自分でも想像できない力が出る。その成果がチキンラーメンです。

 1950年代初めまで、麺類は零細事業者が家内工業として作っていた。それを大量生産が可能な工業製品とした最大の立役者は百福氏だ。即席麺産業は国内だけでも5200億円市場に育った。

 それだけに即席麺のパイオニアとして強烈な自負がある。かつて、同社商品の総発売元の1社である三菱商事の幹部が、事業範囲を「ラーメンからミサイルまで」と表現した際、「ラーメンを最も低い地位のように言うとは何事か」と激怒したこともある。

安藤氏:ラーメンは1つの産業になりました。インスタントラーメンの会社でも、街のラーメン屋さんでも「ラーメンをやっている」と胸を張って、威張って言うことができるようになった。従業員だって、勤めている会社が評価されれば誇りに思うでしょう。

 創業直後、最も苦労したのはモノマネ商品がたくさん出たことです。でも、即席麺産業を大きくするには1社よりも多くの会社があった方がいい。だから、昭和37(1962)年にチキンラーメンの特許を取得した後、特許を独占せず、61社と使用許諾契約を結びました。私が特許をオープンにしたからこそ、この業界ができたわけです。