全6239文字

中曽根康弘元首相が11月29日に亡くなった。内政では3公社の民営化を推進。外交では「戦後日本外交の頂点」(服部龍二・中央大学教授)を極めた。元衆院議員の深谷隆司氏はその中曽根氏と50年にわたって政治活動を共にした。「売上税」導入という中曽根内閣の看板政策に反旗を翻した深谷氏に中曽根氏はどう接したのか。中曽根氏の人物像に迫る。

(聞き手 森 永輔)

中曽根康弘元首相が亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りします。中曽根さんと深谷さんとのお付き合いが始まったのは、深谷さんが衆院議員に初当選した1972年からですか。

深谷:いえ、出会いは1963年にさかのぼります。私が27歳の時でした。

深谷隆司(ふかや・たかし)
元衆院議員。1935年に生まれ、終戦を満州で迎えた。1963年に台東区議会議員に当選、69年に東京都議会議員。72年、衆院議員に初当選。以降、当選9回。郵政大臣、自治大臣、国家公安委員長、通商産業大臣(2期)、自民党総務会長などを歴任。現在は自民党東京都連最高顧問、TOKYO自民党政経塾塾長、温故知新塾塾長として、次世代リーダーの育成に努める。(写真:加藤 康)

 この年、私は台東区の区議会議員選挙に打って出て初当選しました。所属したのは自民党です。政治家を目指したのは敗戦時の経験が大きかったからです。私は終戦を満州(現在の中国東北部)のハルビンで迎えました。ソ連兵が入ってきて、昨日までの天国が地獄に変わりました。男は見つかればシベリア送り、女は辱めを受ける。時々、夜になるとドーンと爆発音が聞こえるのです。近くに住む日本人一家が手りゅう弾を使って集団自殺したことを示す音でした。

 日本に帰り着いたのは終戦から1年後。ようやく佐世保に着くと、大人たちがみな頬を地面にこすりつけながら大泣きしたのです。「日本という国があってよかった。日本人で良かった。この国を立て直し、きちんと守る」。愛国心に目覚め、政治家になることを決めた瞬間でした。11歳の時です。

「青年将校」の巧みな演説に憧れる

 政治家としての最初の挑戦は東京・台東区の区議会議員になることでした。27歳の時に無事当選。

 区議に当選して間もなくすると衆院選があり、自民党で都議会議員をしていた四宮(しのみや)久吉氏が立候補することになりました。この選挙を選対本部長としてお手伝いすることになったのです。その後、四宮氏に請われて私設秘書にもなりました。この四宮氏が、河野一郎氏率いる春秋会(河野派)に属していたことから、同派にいた中曽根さんと知り合うことができました。

 当時、「青年将校」と呼ばれていた中曽根さんの演説の格好良かったこと。「こんな政治家に自分もなりたい」と強く憧れました。

 その後、私は浪人することになりました。義憤にかられ都議選に出たものの、落選してしまったからです。1965年に都議会が歴史上初めて解散することになりました。汚職事件がきっかけでした。いざ、選挙となると、この事件の発端となった都議が再び立候補するというのです。私は「おやめなさい」と説得したのですが、聞き入れてくれません。なので、私も対抗馬として無所属で立候補することを決めました。しかし、結果は惜敗。270票足りず浪人することになりました。

 私は次の都議選での必勝を期して、組織固めに力を入れ始めました。そんな浪人中の私を、中曽根さんは非常にかわいがってくれたのです。演説会を開くたび、いつも顔を出し応援演説をしてくれました。そのおかげで「深谷は信用できる」と地元のみなさんに思ってもらえるようになりました。