香港の区議会議員選挙。民主派が圧勝(写真:AP/アフロ)
香港の区議会議員選挙。民主派が圧勝(写真:AP/アフロ)

 香港の区議会議員選挙が11月24日に実施された。香港当局も、その背後にいる北京当局も、そして民主派も、その他の選択肢がなかったからであろう。本稿執筆時点で香港メディアは、民主派が圧勝して総議席の3分の2超を獲得したと報じている。民主派の獲得議席が半数を超えるのは1997年に中国に返還された以降、初めてのことだ。

 区議会は香港の政治や行政を決定する権限はないが、香港住民による唯一の直接選挙の場であり、その結果は民意を大きく反映する。今回は投票率も高かった。これまでの香港当局の対応に対し、香港住民が強烈な「ノー」を出したことは間違いない。その背景をどのように読み解けばよいのであろうか。

英国は、返還義務のない香港を返還

 最近、香港をよく知る外務省の人物と話をして大きな啓発を受けた。香港については、ある程度の知識はあったが、はなはだ不十分であったと痛感した。香港内部の事情をもっと理解しなければ正しい回答は得られないということだ。

 世界において外交は内政そのものとなった。内政に対する知識と洞察がなければ外交を語ることは難しい。香港についても、中国や米国の動き以上に、香港の内部がどうなっているかを知る必要がある。

 この人物は香港の複雑な状況は、複雑な人口構成と世代間の認識の相違からきているという。それは香港の歴史と深く関わっている。

 アヘン戦争の結果結ばれた南京条約(1842年)により香港島が、次いでアロー戦争の結果結ばれた北京条約(1860年)により九竜半島の先端(約9.7平方キロメートル)が英国の領土となった。英国はさらに1898年、中国との租借条約により235の島を含む新界について99カ年にわたる租借を確保した。

 この新界の租借期限が訪れたのが1997年。英国は租借地である新界だけではなく、返還義務のない領土である香港島なども合わせて中国に返還した。返還後の香港のありようについて英国が発言権を持てたのは、この義務のない領土返還もやったからだ。

中国で動乱が起こるたび、香港に人が流れた

 1842年以来、香港は英国の植民地として発展してきた。その間、香港住民に発言権は一切、与えられなかった。民主主義はなかったのだ。しかし香港社会には英国のコモン・ローに基づく「法の支配」が確立した。今月18日、デモ参加者のマスク着用を禁止する法律は香港の憲法に当たる「基本法」に反すると香港の高等裁判所が判断を示したのも、その一つの例と言える。

 中国と英国は、香港が中国に返還された後、中国の主権の下、香港の自由と繁栄を確保することを目的として「一国二制度」「高度な自治」という仕組みに合意した。つまり香港の民主主義は、この枠内で人工的に与えられたものなのだ。

 南京条約が結ばれた19世紀半ばから新中国が成立する20世紀半ばまで、中国は清朝の滅亡、軍閥の跋扈(ばっこ)、日本の中国侵略、国共内戦と、動乱の日々が続いた。そのつど多くの人たちが安全を求めて英国統治下の香港に逃れてきた。

続きを読む 2/3 中国の富裕層とUターン香港人が続々と香港へ

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