英国市民の命が、英国の街で白日の下に奪われてしまったということは、同じようなことが世界のどこでも起こりうるということですね。

青井:はい、そのとおりです。化学物質ですから、2次被害もあります。元スパイとその娘が食事をしたレストランで同じ化学物質が検出されましたし、家材を失ったり、今でも健康被害を心配したりする市民がいます。

 この時のロシアの行動には2つの柱がありました。1つ目は例えば偽情報を流布することによって混乱を招く行動。2つ目は、化学兵器禁止機関(OPCW)を強化しようとする英国の試みを妨害し、遅延させることでした。OPCWは化学兵器分野における権威ある国際機関です。

 英国政府はこうしたロシアのやり方に冷静かつ迅速に対応しました。いきなりロシアを名指しすることを避け、以下の3つの行動を起こしました。第1は、住民の保護です。内務省・警察が主導し、化学物質を除去し、民心の安定を図りました。

 第2は法的措置です。これは殺人未遂事件ですから、警察が刑事手続きにより犯人を特定します。この結果が分かるまで、政治の介入は避け、司法の独立を担保したのです。ロシア政府にも調査への協力を求めました。

 また、防衛省と諜報機関は、使用された神経剤がロシアにある軍事施設のみが保有しているノビチョクと突き止めたのです。英国のこの主張を4月半ば、OPCWの調査が認め、英国の主張の正当性が担保されました。犯人をGRUの2人の職員と限定したのは諜報機関です。CCTV(監視カメラ)に2人の姿が映っているのを発見したのです。

 戦略的コミュニケーションの観点から見ると、警察が刑事手続きを進める、国際機関のお墨付きを得る、といった法的措置を講じることで、英国の主張は事実に基づくものであることを英国民にも、世界にもアピールできました。英国は、入手した事実関係を検証するよう、米国や欧州の同盟国にも求めました。

 こうして証拠を整えたうえで、ロシアの関与を明るみに出したのです。具体的には、国家安全保障担当補佐官マーク・セドウイル氏が2019年4月13日、NATO(北大西洋条約機構)事務総長に宛てて手紙を送りました。英国は同じ情報をG7参加国にも提示しました。こうした手順を踏むことで、英国のやり方は法的手続きにのっとった合法なものだとアピールしたのです。

 第3は、ルールに基づく国際秩序の強化でした。ノビチョク事件に際して、英国はOPCWを強化しようとしました。この機関の技術支援により化学物質が特定されることを重視したのです。また、英国がこの件でOPCWの手続きを経ることで、この機関の信頼性を高めようと図った。この過程でロシアは、自らが加わる別の調査を立ち上げるべく、OPCWに対抗案を提出しました。結局この案は否決されましたが、ロシアは、英国の要請に基づく同機関の技術支援の信頼性を真っ向から否定する立場を取ったのです。

危機管理の司令塔「コブラ委員会」

英国制度はどのように優れているのですか。

青井:これまでに説明した3つの行動は、危機管理を担当する「コブラ委員会」が決定したものです。同委員会は英国政府全体が参加する会議で、首相、主要閣僚や警察トップ、情報局保安部(MI5)が参加し、司令塔の役割を果たします。同委員会が定める方針に従い、各省庁が管轄する措置を適宜実施したのです。

 また同事件は、国家安全保障コミュニケーションチームと呼ばれる内閣府内の組織を拡大強化するとメイ政権(当時)が2018年3月に決定した直後に起こりました。この方針は、政策とコミュニケーションのより強い連結を目指し、政治目的達成のためのコミュニケーションの方法や戦略作りに携わるコミュニケーションのプロの人材と能力を確保するものです。国家安全保障政策の中核にコミュニケーションを制度的に位置付けているのは、英国の特徴です。

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