「ベルリンの壁」崩壊 (1989年11月)(写真:アフロ)
「ベルリンの壁」崩壊 (1989年11月)(写真:アフロ)

 1989年に起こったベルリンの壁崩壊は、欧州の地図を塗り替え、東西冷戦の終結につながる大事件だった。それから30年の節目に当たる11月9日、ベルリンなどドイツ各地で記念式典が行われた。欧州の新聞やテレビ・ニュースには、「自由が勝利した年」というトーンの報道や論評があふれた。

 だが肝心のドイツでは、祝賀ムードは希薄だった。むしろこの国は、初冬の灰色の雨雲が低く垂れ込めているような、重苦しい雰囲気に覆われている。

 その理由の1つは、壁の崩壊から30年たっても東西市民の間の「心の亀裂」が完全に埋められていないことだ。多くの旧東ドイツ市民、特に社会主義時代に生まれ育った中高年の市民の間には、今なお「自分は統一によって貧乏くじを引かされた負け組だ」とか「自分たちは旧西ドイツ人から、2級市民のように見られている」というコンプレックスが残っている。

 なぜ彼らは今も劣等感を抱いているのか。その背景を知るには、時計の針を30年前まで戻さなくてはならない。

無血革命、東欧連鎖革命の始まり

 ベルリンの壁崩壊は、多数の東ドイツ市民が治安当局に逮捕される危険を冒して社会主義政権に対する抗議デモを繰り返し行った結果、発生した。いわば草の根から始まった無血革命である。東欧連鎖革命、そして社会主義陣営の崩壊につながる、鉄のカーテンに生じた最初の大きな綻びだった。

 筆者は当時NHKワシントン支局の特派員だった。この頃NHKにはドイツ語で取材できる記者が少なかったため、急きょベルリンへ飛ぶように上司から命じられた。壁崩壊から1週間後の11月16日に、ニューヨーク、フランクフルト経由でベルリンに到着した筆者は、目を疑った。西ベルリンの目抜き通りクアフュルステンダムを、東ドイツの国産車トラバントが埋め尽くし渋滞を引き起こしていたのだ。この時のベルリンは、祝祭のような雰囲気に包まれていた。肌を刺すような寒さの中、多くの人々が吸い寄せられるように、壁に沿った地域に集まってきた。彼らは、1週間前に起きたことが現実であるとは信じられないという表情だった。

 東西間の検問所を通って、東ドイツ市民が次々に西側に流れ込んでいる。東ドイツの国境警備兵によるチェックは全くない。彼らはぼうぜんとして、人の流れを見ているだけだ。ポツダム広場付近では、すでに大きく壁が取り除かれている。無人地帯を通って、車と人が次々にやってくる。

 多くの西ベルリン市民がハンマーやのみで壁をたたき、破片を削り取っていた。筆者は、涙を流しながら壁をたたいているベルリンっ子も見た。彼らにとって壁は、第2次世界大戦と東西冷戦がこの町にもたらした、深い傷の象徴だった。多くの家族が壁によって生き別れとなった。壁を越えて西側に逃げようとして、警備兵に射殺された市民の数は数百人にのぼる。

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