まず、国務省報告書は、特定国を名指ししていない。さらに、より興味深いのは「競争」という表現である。上記の引用に続く後段では、「競争は対立(conflict)ではない。それはむしろ、対立を避け、全員のパフォーマンスを向上させる」との説明がある。

 ここで思い出されるのは、冷戦研究でしばしば指摘される緊張関係の2側面である。当然ながら、冷戦の重大な側面は対立構造であり、ベトナム戦争をはじめ多くの地域で実際の衝突が生じた。他方、米ソ両大国同士の直接的な衝突は避けられたことも冷戦の重要な特徴であった。冷戦史の大家ジョン・ルイス・ギャディスの「長い平和」という表現は、この両大国間関係の安定を指したものである。

 冷戦期の途上国についても、対立ではなくシステム間の競争という側面に注目した研究がある。東京大学社会科学研究所が編さんした『20世紀システム―開発主義』によれば、ソ連におけるスターリン体制の終焉(しゅうえん)を大きなきっかけにして、米ソ対立は質的に変容した。それ以降、米ソ間では、技術開発と経済成長を実現するためのシステムとして、どちらの体制が優位かを競い合う状況が出現したという。

 その結果、両国は途上国に対して軍事援助にとどまらない広範な援助を提供するようになった。一方、途上国ではそうした変化に呼応するように開発主義体制と呼ばれる体制が広まった。西側においてこの恩恵を強く受けたのは、韓国、香港、台湾、シンガポール、さらにはタイやインドネシアなど、後に世界銀行が『東アジアの奇跡』で取り上げる国や地域である。冷戦以降、これらの諸国・地域は、途上国から高所得国に移行、あるいは新興経済として注目を集める存在となっている。

 ここで国務省の報告書に戻ると、インド太平洋地域のこれまでの繁栄を支えてきたのは自由と開放性であり、それらは一つのビジョンとして共有されているという。自由と開放性を前進させるため、米国は、インド太平洋戦略下で多国間外交と同盟国やパートナーとの2国間外交を前進させるとする。

 多国間外交については、日・米・オーストラリア・インドの4カ国会談を閣僚級に格上げしたことを特筆している。続けて、独自の「インド太平洋概況」を発出したASEAN(東南アジア諸国連合)を高く評価し、日本政府やアジア開発銀行と協力してメコン地域の開発に協力するとしている。その他、南アジアや太平洋島しょ国に対する支援を拡充することにも言及がある。国務省報告書だけを読めば、インド太平洋地域の多国間外交に積極的に関与する米国の姿勢が浮かび上がる。

インド太平洋戦略と地域の今後

 トランプ大統領が東アジアサミットを欠席したことは、同大統領の多国間外交に対する関心の薄さを国内外のメディアに再確認させることになった。他方で、国務省報告書では、多国間外交に対する米国の明確な関心が見て取れる。

 米中貿易戦争の結果、既存の貿易秩序は動揺している。他方で、こうした貿易秩序にいまだに十分に組み込まれていない南アジアや太平洋島しょ国から見ると、インド太平洋戦略は、米国との関係拡大を期待させるものである。南アジアや島しょ国の電化など、エネルギー分野などでは実際に動きのある政策領域もある。

 国務省のインド太平洋報告書からは、多国間外交の枠組みにとどまろうとする米国の政策当事者たちの声が聞こえてくる。世界の多国間外交の行方を考える上で、米国政府が、今回の国務省報告書が提示する内容をどの程度実行に移すかどうかが注目点となる。

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