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韓国ドラマ「愛の不時着」では、境界線を越えてきた韓国人女性を、北朝鮮の兵士が命をかけてかくまった。だが、現実は(写真:Photofest/アフロ)

 9月21日に黄海での作業中に行方不明になっていた韓国海洋水産部の公務員が、北側に漂流して9月22日に北朝鮮の軍隊に射殺された。この問題が韓国を騒がせている。その間に、朝鮮労働党中央委員会統一戦線部が、通知文を韓国側に送ってきた。その中に、金正恩(キム・ジョンウン)の謝罪の意が入っていたことも話題になっている。

 通知文にある金正恩の謝罪の意は、以下のようなものであった。「国務委員長・金正恩同志は、ただでさえ悪性ウイルス病魔の脅威に苦しむ南の同胞に助けどころか、我が方水域で予想外の不始末が発生して、文在寅大統領と南側の同胞に大きな失望感を与えたことについて大変申し訳なく思っていることを伝えろと言いました」という内容である。

 韓国政府は、金正恩の謝罪の意を異例のものと説明したが、韓国世論の怒りが収まる気配はない。北朝鮮側は否定しているが、北朝鮮が死体を焼いたと韓国国防部が発表したこともさらに韓国世論の怒りをたきつけたようである。もちろん、朝鮮労働党中央委統一戦線部の通知文を謝罪として受け止めて、すべてを終わらせるかは韓国政府次第である。それに金正恩が謝罪の意を示したからといって、南北朝鮮の現実が何か変わるわけではない。

北朝鮮に「犯人」は存在しない

 南北朝鮮は戦争中であるから、現実的な目で見れば、韓国人が北朝鮮に侵入したら即時に殺される可能性は十分にあると認識しておいた方がよい。もちろん、これは韓国に勝手に侵入した北朝鮮人も同じである。1953年の朝鮮戦争停戦以来、北朝鮮は数多くの韓国人を殺害してきたし、それと同様に韓国も数多くの北朝鮮人を殺害してきた。

 南北朝鮮の境界線は、国境ではなく軍事境界線である。南北朝鮮は他国ではなく、一つの国家において内戦を戦っているのだ。境界線を越えたとき、愛の力でわざわざ命をかけてかくまってくれるなんて期待できるものではない。韓国ドラマ「愛の不時着」はあくまで脚本家たちによる夢物語であって現実には存在しない話である。

 北朝鮮では、今回の韓国公務員殺害を違法行為とは考えていない。これは正当な手順に基づいた行為としている。党中央委統一戦線部が送ってきた通知文では、「海上警戒勤務規定が承認した行動準則に基づいて10余発の銃弾を不法侵入者に向かって射撃した」ということである。つまり、軍人たちは規定通りに行動したことになっている。事件が明るみに出ると、韓国大統領府は北朝鮮に犯人を捜すよう求めると語っていたが、北朝鮮ではそもそも犯人が存在しないのである。

 ただ、北朝鮮は、これ以上に緊張が高まることを防ぎたかったのであろう。現在、北朝鮮は台風による大きな被害を受けて、復興に力を入れている最中である。夏までは、韓国に対する怒りから強気に出ることができたが、今はこれ以上、緊張関係をつくりたくないであろう。そのために、朝鮮労働党中央委統一戦線部が通知文を送って、金正恩の謝罪の意も含めたと考えられる。それに、朝鮮労働党中央委統一戦線部は、もともと対南政策を担当するのが仕事であるので、韓国と対立したいわけではない。