クウェートのサバハ首長が死去(写真:AP/アフロ)
クウェート首長府は、サバーフ(以下、サバハ)首長が9月29日、死去したと発表した。クウェートのテレビ局は発表の少し前から通常の番組を中断してクルアーン(以下、コーラン)を流し出したので、多くのクウェート人は首長の身に何かあったと察したであろう。サバハ首長は、7月に国内で手術を受けたあと、米国の病院に入院していたからだ。
その後、健康状態は回復との公式発表が時おりなされていたものの、首長本人は一切表に出ることがなくなっており、91歳という年齢も年齢なので、健康状態に懸念が出ていた。
クウェートのような小さな国の首長が亡くなったことに、どれぐらいの人が関心を持つか分からないが、この国に長く関わってきた人間として、サバハ首長の業績や今後の動きについて考えてみたい。
クウェート版両統迭立が続いた
亡くなったサバハ首長は、正式にはサバハ・アフマド・ジャービル・サバハといい、クウェート首長家であるサバハ家のメンバーであり、クウェート国の第15代首長であった。正確にいうと、18世紀にサバハ家がクウェートの支配を確立してから15代目で、英国の保護国から独立してからだと、5代目に当たる。また、首長(アラビア語で「アミール」)というタイトルを使うようになってからだと、6代目になる(それまでは、統治者=ハーキム=などの肩書が用いられた)。
2006年にジャービル・アフマド首長が亡くなって、皇太子だったサァド・アブダッラー・サーリムが首長位に就いた。しかし、サァドは重篤な病気で、首長という激務を務められるとは想像できなかった。それゆえ、クウェートの国会に当たる国民議会は、サァドを廃位し、代わりに、ジャービルの異母弟で首相を務めていたサバハを首長に推挙。そのとおりサバハが首長位に就いたのである。なお、首長の廃位や皇太子選びに議会が関与できるのは、クウェート政治の重要な特徴といえる。
クウェート憲法は、首長位は、1915年に亡くなった第7代統治者ムバーラクの子孫から選ばれると規定している。慣習的に、ムバーラクの2人の息子、ジャービル(第8代首長で、上述のジャービルの祖父)とサーリム(第9代首長で、サァドの祖父)の子孫が交互に首長位に就いてきた。この慣習は必ずしも厳密に守られてきたわけではないが、ムバーラク後、ジャービル、サーリムが相次いで首長に就き、その後はジャービル家のアフマド、サーリム家のアブダッラーとつながる。
このアブダッラー治世の1961年、クウェートは英国の保護国の状態から正式に独立する。アブダッラーを継いだのは同じサーリム家に属するサバハ(今回亡くなったサバハとは別人)で、サーリム家が続いたことにより、ここで順番がずれてしまう。その次に即位したのがジャービル家のジャービル・アフマドである。そして、ジャービルが亡くなって、短期間、首長位に就いたのがサーリム家のサァドで、その後はジャービル家のサバハ、そしてその異母弟で、新しく首長になったナウワーフが続く。
ジャービル家の有力皇太子候補はミシュアルとアフマド・ハムード
新首長は即位後1年以内に後継者(皇太子)を決定しなければならない。これも、憲法が規定している(第4条)。まず、首長が皇太子候補を指名し、それを国民議会が特別会合において過半数の賛成で承認するという手続きを踏む。国民議会が首長の出した候補を拒否した場合、首長は新たに3人の候補を提出し、議会はそのうちの1人に忠誠の誓いを行う。
今のところ、皇太子候補として名前が挙がっているのは、以下の人物だ。まずジャービル家から5人。ナーセル・ムハンマド元首相と、その息子アフマド現外相。サバハ首長の息子ナーセル・サバハ前国防相。アフマド・ファハド元石油相。そして第10代首長アフマドの弟であるハムードの子、アフマドなどである。
ただし、みなそれぞれに難点を抱える。ナーセル・ムハンマドは首相時代、議会と相当対立していた。サバハ首長の息子であり、野心もたっぷりなナーセル・サバハも疑惑で国防相を事実上解任された過去がある。アフマド・ファハドも、一部に人気があるものの、さまざまな事件で名前が挙がってきた。
ナウワーフの弟であるミシュアル国家警備隊副長官も最有力候補として名前が挙がっている。サバハ首長が米国で治療を受けた際に同行するなど、前首長との近さがアピールされている。しかし、ナーセル・ムハンマドと同様、年齢がネックとなる。
一方、アフマド・ハムードは内相、国防相、第一副首相などを歴任しており、マイナスポイントも少ないことから、有力候補に挙げられよう。
サーリム家は有力候補に恵まれず
サバハ、ナウワーフとジャービル家が続くなか、次もまたジャービル家となると、サーリム家としては面白くないかもしれない。しかし、サーリム家には、めぼしい候補が見つからないのも現実である。
数少ない候補としては、第12代首長サバハの子のムハンマドがいる。彼は米ハーバード大学で博士号(経済学)を取得したのち、クウェート大学教授や財務相、外相、副首相など要職を歴任してきた。経歴だけみれば、十分資格ありといえるが、サーリム家側からの押しもそれほど目立ったことはない。かつては、サーリム家の皮を被ったジャービル家ともいわれ、ジャービル家との関係がきわめて良好であったが、だからこそ、サーリム家からは嫌われてしまった可能性があるだろう。
いずれにせよ、ナウワーフ新首長は世界最年長の皇太子といわれ、即位時点ですでに83歳である。どれほどの期間、首長として君臨できるかは不明だ。誰を皇太子に指名するかが当面、最も注目されるであろう。
また、場合によっては、新たに首相が任命される可能性もある。現在の首相は、サバハ・ハーリド。サバハ家のメンバーであり、大ムバーラクの子孫ではあるが、ジャービル家・サーリム家の出身ではなく、慣例では皇太子・首長になることはない。クウェートではもともと皇太子が首相を兼務するのが一般的であったが、この習慣をサバハ前首長が破った経緯がある。
サバハ前首長と大平外相の不協和音
さて、そのサバハ前首長は1929年、第10代首長、アフマドの息子として生まれた。クウェート最初の近代的な学校といわれるムバーラキーヤ学校で教育を受けたのち、宮廷で家庭教師について学んだ。1954年以降、政府の要職を歴任。1963年には外相に任命され、2003年まで長くその地位にあった。2003年、当時の首相、サァド皇太子の病気を受け、首相に指名される。2006年にジャービル首長(当時)が死去し、後継のサァド首長(同)の廃位を受けて、首長位に就いた。
これだけ長期にわたって外相として活躍した人物は、隣国サウジアラビアの故サウード外相ぐらいであろう。日本の外務省によれば、サバハは外相、首相、首長として7度訪日している。
なかでも特筆すべきは1964年の訪日であろう。この年4月27日、サバハ外相(当時)は日本を訪問、30日には昭和天皇に拝謁、池田勇人首相(同)とも会談した。問題が起きたのは5月1日の大平正芳外相との会談であった。大平外相は会談中、こともあろうに居眠りをしたり、ちらちら時計を見たりしていたという。しかも、
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