日中両国は9月29日で国交正常化50周年を迎える。この大事業をけん引したのは、2人の傑出した外政家だった。1人は日本の大平正芳。「失敗したら辞めなければいけないじゃないか」とためらう田中角栄の背中を押し、新たな日中関係の扉を開いた。もう1人は中国の周恩来。米国、ソ連を向こうに回し国際政治を展開する一方で、自身の批判勢力である「四人組」の実力者に花を持たせたるなど、内政での配慮も欠かさなかった。

(敬称略)

ニクソン米大統領(当時、右から2人目)と談笑する田中角栄首相(同、左から2人目)と大平正芳外相(同、左)(写真=AP/アフロ)
ニクソン米大統領(当時、右から2人目)と談笑する田中角栄首相(同、左から2人目)と大平正芳外相(同、左)(写真=AP/アフロ)

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 公明党委員長・竹入義勝(第3次公明党訪中団の団長)は帰国した翌日の8月4日、首相官邸を訪ね、首相の田中角栄と外相の大平正芳に「竹入メモ」を手渡した。巷間(こうかん)流布されている通説では、翌5日、田中はホテルニューオータニ で改めて竹入と差し向かいで会談、「メモ」の真偽を再度念押しして、本物だと確信すると、その場で訪中を決断した、となっている。

実は訪中をためらった田中

 が、実際は「竹入メモ」以後もなお、田中は早期訪中に逡巡(しゅんじゅん)していた。訪中の時期が具体的になってきたとき、大平が話をすると、「9月は……だけど失敗したら辞めなければいけないじゃないか」と渋った。

 通説は、「決断と実行」の田中は、日中国交正常化に向けた訪中の決意を早くから固めていたというものだ。しかし、渋る田中の背中を最後にひと押ししたのは、大平だった。森田一(大平の女婿で外相政務秘書官)によると、竹入メモがもたらされてから、田中が9月にも訪中すると最終決断を下すまでに「4 日かかった」という。もっとも、捨て身の覚悟をいったん固めた田中は、その後は不動の姿勢を崩さなかった。大将の器たるゆえんがそこにはあった。

 首相・田中角栄と外相・大平正芳を軸にする体制において、外務省の核となったのは2人に近い中国課長の橋本恕(ひろし)。これと並行して大平が頼りにしたのが、内務官僚出身の親中派衆院議員・古井喜実(元厚相)だった。外相に就任した大平は、日中国交正常化に向けて「昼間は外務省で橋本からのブリーフ、夜は料亭・栄家で古井との協議」を毎日のように続けた。

 田中の9月訪中が事実上決まったのは、8月11日の大平・孫平化(中日友好協会会長)会談を経て、15日に田中が孫と帝国ホテルで会談したときだった。

 田中の9月訪中に向けて流れができた。あとは一瀉千里(いっしゃせんり)。共同声明案自体の最後の詰めと政治的環境の整備は大平が主導。視野広く妙策を練って戦略的に事を運ぶ外政家としての深謀遠慮とその資質を十分に発揮した。台湾との関係を「清算」、対米調整、自民党内のガス抜きなど、大平は訪中に向けた段取りを構想するとともに、共同声明案に関する外務省当局との詰めの作業も進めた。

 田中は大平の助言に基づいて椎名悦三郎を党副総裁に抜擢(ばってき)するのと併せて台湾特使に任命。8月末には米ハワイに飛んで米大統領ニクソンとの日米首脳会談に臨んだ。舞台裏で動いた古井喜実はといえば、大平の意向に沿って、共同声明案に関する日本側の考え方を携行して中国を訪問、極秘裏に周恩来と会談(9月19日)。田中訪中に向けた地ならしはすべて完了した。

 9月25日、田中と大平は専用機で北京入りした。交渉は、その日の夜から4日間にわたってそれぞれ複数回の日中首脳会談・同外相会談、間に田中・毛沢東会談も織り込んで開かれ、紆余曲折(うよきょくせつ)の激論が重ねられた。この間、周恩来が、国交正常化に臨む日本側の基本方針を述べた外務省条約局長・高島益郎を厳しく批判。日中戦争で中国国民に多大な迷惑をかけたと発言した歓迎夕食会での田中のあいさつに、中国側は表現が軽すぎる(「ご迷惑」スピーチと称された)として猛反発した。

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