日中両国は9月29日で国交正常化50周年を迎える。この大事業をけん引したのは、2人の傑出した外政家だった。1人は中国の周恩来。米大統領ニクソンは周を「権謀術数の闘士であるとともに折れ合う技術にも長じていた」と評した。もう1人は日本の大平正芳。国交正常化の8年前、64年の時点で、中国が国連に加盟することになれば、わが国として「国交の正常化を考えなければならないことは当然だ」と強調していた。

(敬称略)

「最大の功績は、周恩来に帰せられるべきであろう」。ニクソン米大統領(当時)は周恩来を絶賛した(写真:AP/アフロ)
「最大の功績は、周恩来に帰せられるべきであろう」。ニクソン米大統領(当時)は周恩来を絶賛した(写真:AP/アフロ)

 日中両国は9月29日で国交正常化50周年を迎える。経団連主催の記念シンポジウムが東京・北京を結ぶオンラインで開かれるなど、経済界を中心に祝賀ムードを盛り上げようとする動きがあるものの、国民世論は冷めたまま。「政冷経冷」の実態は変わらない。日中戦争を体験した旧世代が幾多の障害を克服してたどり着いた半世紀前の国交正常化。当時、外交のかじ取りを担った、今は亡き傑出した外政家2人――大平正芳と周恩来――に焦点を当て、「日中和解」の原点に思いを致してみる(敬称略)。

ニクソンが絶賛した周恩来

 1970年初頭、米ソ両超大国に中国が加わる形で大国間のパワーゲームは緊迫した局面を迎えていた。インドシナ半島でベトナム戦争の泥沼に足を取られて、もがく米国。中ソ両国が軍事衝突した69年のダマンスキー島(珍宝島)事件を機に約4000キロメートル(km)の国境線を挟んで鋭く対峙する両国の一触即発状態。大国間のパワーバランスは大きく崩れようとしていた。北京・中南海には、核戦争にまで発展しかねないとの危機感が漂った。71年から72年にかけての劇的な米中接近は、こんな状況下で起こった。

 「あの米中国交正常化への一歩を踏み出さなかったら、ソ連に対する力の均衡は、米国にとって決定的に不利になっていた」。72年2月、中国大陸に歴史的一歩を印した米大統領リチャード・ニクソンは、後にこう振り返った。そして、次の一言を付け加えた。「1972年のあの上海宣言を導いた外交的決断には、多くの人や出来事が関係している。だが、最大の功績は、周恩来に帰せられるべきであろう」

 米中接近に続いて、間髪おかず日本との国交正常化に動いた、傑出した「外政家」、周恩来とは、どんな人物だったのか。

 ニクソンは、周恩来の優れた「外政家」たるゆえんを「共産主義革命家であるとともに儒教的紳士であり、筋金入りのイデオローグであるとともに読みの深いリアリストであり、権謀術数の闘士であるとともに折れ合う技術にも長じていた」と評した。

周恩来が見た、富国強兵の裏事情と大正デモクラシー

 周恩来と日本の縁を手繰り寄せると、天津の南開中学を卒業した青年・周恩来の日本留学(17年)に行き着く。当時、周の心中で、西欧列強に伍して国力をつけてきた近隣国「日本」の存在が占める割合が大きくなっていたのは確かだ。

 が、周が日本を留学先に選んだ何より切実な理由は経済的な要因であった。金銭的に限られた支援しか期待できない周にとって、将来を見据えた夢を実現する道は、東京高等師範学校か第一高等学校の合格しかなかった。しかし、いずれの受験にも失敗。官費留学の道が断たれた青年・周恩来には、日本体験が「屈辱の留学」という深奥に突き刺さった記憶として残った。『十九歳の東京日記』からは、勉学と愛国運動に挟まれた周の苦悶(くもん)が赤裸々に伝わってくる。

 周の日本滞在はわずか1年7カ月。周の日本留学は、挫折に塗りつぶされたもののように見えるのだが、その日本体験が持つポジティブな側面を併せて見る必要がある。とすれば、後々、国家指導者となる周が「大正デモクラシー下の日本国民の実像」に接した点が重要である。

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